±0

 

by 彩門 八重 様

 
 
ねぇ、悟浄。
世の中は平等にできていないようで、結構平等にできている。
僕はそう思ってます。
何かを失ったら、必ず何かを手に入れる。
僕が花喃を失って、妖怪の命を手に入れたように。
だけど、その法則が正しければ、何かを手に入れたら、何かを失わなければならない。
貴方を手に入れて僕が失くすものはなんなのか。
僕はずっとそれを考えていたのです。
そして、今。ようやく今それがわかった気がします。


あれはいつだったんだろう。なんでそんな話になったかももう忘れてしまったが、どちらが先に死ぬか、という話題で盛り上がって、もとい大喧嘩になったことがあった。悪趣味な話だ。思えば僕達は悪趣味な話ばっかりしていたような気がする。
ああ、そうだ。思い出した。
悟空が三蔵より先には死なないと言っていたことを僕が悟浄になんとなく告げたことから始まったんだ確か。だから、悟浄が一度姿を消した後の話。あの時はもう最悪でしたね。まぁ、そんなことはどうだっていいんです今は。
その時に悟浄は言った。
絶対、俺はお前より先に死ぬ。
冗談じゃない。置いていかれるのは一度で御免だ。
僕がそう言ったら、悟浄が言ったのがこの台詞。
「お前の死体だけは見たくねぇ。怖すぎる」
失礼にもほどがある。
死体なんか毎日見てるじゃないですか。それどころかその死体を作成しているじゃないですか。しかも一番残酷な形の死体を作成してるのは他でもない悟浄じゃないですか。
そう言ったら、そういう問題じゃない。とにかく俺はお前より先に死にたいと悟浄は言った。
僕だって貴方の死体なんか見たくないですよ。大体僕が貴方を好きな理由は触ったら温かいからなんです。と言ったら、お前は温かけりゃ誰でもいいんじゃねぇのかと来た。
それでもう大喧嘩。愛がない。愛がないのはどっちだ。俺が先だ。いや、僕が先です。
意味のない押し問答を延々と繰り返した。思えば僕達は喧嘩ばかりしていた気がするけれど、この喧嘩が一番不毛だったような気がする。
結局それぞれが自分が絶対先に死ぬ。と一方的に宣言して眠ったんですよね、確か。
僕達は自分勝手だ。悟空みたいな愛し方は一生できない。
でも、それがとてもとても僕達らしいと思ったんです。


そして今、僕と悟浄の手は繋がれている。
底の見えない断崖で。もう二時間以上はこうしている。
というのも、妖怪の襲撃でジープごと吹っ飛ばされたおかげだ。
三蔵は多分悟空につかまれて崖につっこむ前にジープから転げ落ちたようだけど、僕は運転席にいたからそのままつっこんだ。
あ、これはもう死んだ。
眼前に広がった崖の底が見えない時点でそう思って目を閉じた。
そう思ったら、落ちて間も無く腕が抜けるような激しい衝撃が右手に走った。
目を開けた次の瞬間に、僕の右手は悟浄の左手と繋がれていた。
あの落ちる瞬間になんとか杓杖を木にひっかけたらしく、悟浄の右手には鎖が巻きついているようだがこの位置からは見えない。
その状態でぶらさがっている。
自然のいたずらかその崖はえぐれていて、足の置き場もない。日頃の行いの悪さがこんなところで災いしたのか。
いくら悟浄でもこの状態で右手だけで足場もなく崖を上れるはずもない。
風が吹くたびに僕達は揺れる。
「………あー…………あんのクソボーズと馬鹿猿…………どっちでもいいからさっさと助けにきやがれ…あーむかつく……」
「案外死んでるかもしれませんねぇ」
笑いながら言った僕に、悟浄は言った。
「あれぐらいで死ぬような奴らかよ。気失ってるかなんかだろ」
「………………悟浄。そろそろ辛くありません?」
「ぜーんぜん」
嘘だ。
いくら悟浄が鍛えていると言っても、もう二時間以上は経っている。笑っているが僕の腕の筋肉ももう痺れて肩口のあたりまで感覚がない。それなら僕の体重を支えている悟浄の腕はもう臨界点を通り越しているはずだ。
それでも、こちらに向ける顔は笑っているけれど。
「悟浄、手を」
「嫌だ」
僕が言い終わる前に悟浄は言い放った。この状態になってから初めて聞いた真剣な声音だ。
さっきからずっと馬鹿なことばかり言い合っていた。
悟空を裸踊りの刑にしてやるだの、三蔵を死ぬほど苛め倒して泣かせてやるだの、明日になったら麻婆豆腐と杏仁豆腐を作ってくれだの、今夜は最低四回はしようだのそんな話ばっかりだ。
これが終わったら。
悟浄は未来のことしか言わない。過去のことは話さない。
でも、悟浄。
僕は何故か過去のことばっかり思い出すんですよ。
それも些細なことばかり。くだらない喧嘩のことや、貴方が言った何気ない一言や、ふとした時に見せた表情。あの部屋のベッドの貴方の頭上に見えた電球とか、あの部屋の貴方のカップとか。そんな些細なことがスライドのように流れていく。
でもどうしても思い出したいことが思い出せない。
「悟浄」
「なんだ」
見上げた悟浄の髪が夕焼けに反射して、限りなくオレンジに近く見える。
この色。大好きだった。普段の赤だって好きだ。だけど、夕暮れのあの部屋の西日に照らされるこの髪を撫でる時、いつもたまらない気持ちになった。
さらさらと指先から流れていく髪がまるで貴方自身を表しているようで。いつまでも指に巻きつけておきたいのに、滑るように逃げていく感覚が泣きたくなるほど貴重で。
「何かを失ったら何かを手に入れて、何かを手に入れたら何かを必ず失うって、わかりますか」
「知らねぇよ」
「僕も今までわからなかったんですよ。僕ずっとずっと貴方を手に入れて失うものってなんだろうって思ってたんですけど、今なんかわかった気がします」
「なんだよ」
悟浄の言葉には答えなかった。僕はつかまれと言われても今まで絶対にしなかったのに、空いている方の左手で悟浄の身体をつかんだ。途端にバランスが崩れて二人は大きく揺れた。
「おい…………っ!?暴れんなって」
すみませんね。でも、もうこんなことしませんから。我慢してください。
痺れている右手にあまり負担をかけないように一瞬だけ力入れて身体を持ち上げる。そして左手でつかんだのは、その風に揺れる髪。
「痛っ!!」
指に抜け落ちた髪が数本絡まった。
思い出した。
そう、こういう感覚だった。
「お前、何やっ……………!?」
途端に両手の力を抜いた僕の右手を悟浄は慌ててつかんだ。
「てめぇ…………!ちゃんとつかまってろ!!」
泣きそうな形相で怒鳴った悟浄に、僕は微笑んだ。
もう充分だ。
だから。
「悟浄。貴方にいただいたもの、今お返しします」

そうして、僕は左手で悟浄の手をふりほどいた。




愛の言葉なんか贈りません。もらった覚えもないですし。
貴方に贈るのは命だけです。
だけど、この髪に免じて死体だけは見せないでおきます。




そうすれば。
これで、±0じゃないですか。