Cherry Blossom

 

by 藤村香今/彩都

 
 
煩わしいだけの公務から逃れるべく、「煙草を買いに行く」と強引に用事を作って外出した、その帰り道でのこと。
肩に触れた何かの気配に気付き、三蔵はふとその場に足を止め、己が頭上へと目を向けた。

「………………」

見上げた先にあったのは、今が盛りの桜の花。
うららかな春の陽射しを浴び、枝という枝をしならせ溢れんばかりに咲き誇っている。
更に前方へと目をやれば。人気の無い細い道沿いに、同じように咲く木々が何本も連なっている。
はらりはらりと散る小さな花びらが、静かに優雅に風に舞っていた。

―― 寺の近くに、こんな場所があったとはな。

そう云えば、あれは去年の夏の初めだったか。悟空が、山ほどのさくらんぼを持ち帰ってきたことがあった。
嬉しそうに誇らしげに笑う悟空を見て、寺の僧侶たちはろくに話を聞きもせずに「どこで盗んで来た」と揃って責め立てていた。が、悟空は、違う、と首を一度横に振っただけで、詳しくは何も話そうとしなかった。
あの時は、別にどこからか苦情が寄せられた訳でなし、さほど気にも止めずにいたのだが――これで、全て合点がいった。
成る程。普段からしょっ中その辺を走り回る子供の目ならば、表通りから些か外れたこの場所を見つけ出すのも、そう難しいことではなかっただろう。
自分の方が長くこの地に住んでいるのに、と苛立つ思いも、無いと云えば嘘になるけれど。

「………………」

買ってきたばかりの煙草を封切り、火を点ける。
静かにくゆる細い煙が、降り注ぐ陽射しににじんで融けた。
ふうっと深く紫煙を吐き出せば、肩にかかっていた諸事雑事への鬱憤も一緒に抜けていくような気さえする。
抜けるような青空の下、ふかす煙草がやけに美味い。周囲に人気が全く無いのも、好ましく思えた。
こんな風に静かに穏やかに時を過ごすのは、一体いつ以来のことだろう。
長い長い冬は過ぎ去り、もう春が来ていたというのに。自分は一体。

はらりはらりと舞い散る花びらが、肩に掛けた経文にも一瞬触れ、落ちる。
その柔らかさを気配で感じ取りながら、三蔵は再び、空を振り仰いだ。

澄んだ空の青にそっと寄り添うように、命の限りに咲く桜。
誰が命ずる訳でもないのに。凍てつく冬の空気の中からでも時を知り、蕾をふくらませ、春の声と共に花をつける。
やがてその時期が来れば、いともあっさりと花を散らし、青々とした葉を繁らせる。
そして。その葉もまた、秋が来れば紅く色を変え、木枯らしにその身を散らせてしまう。
その彩りを、儚さを惜しむ者の心を他所に、それが宿命だと示さんが如く。

物言わず、急ぐように咲いて散る華やかな色は、季節に応じて在り方を変える様は、何処か人の姿にも似ている。
但し。人には喋るための口があるし、たまに季節の移ろいを忘れたりするけれど。
でも。



気紛れに掌を広げてみれば、花びらがそっと舞い降りる。
その色を黙って見つめながら、咥え煙草をふかしてみれば、吐き出す煙が風に散って消えた。



と、その時、

「あっれー、三蔵サマじゃねぇのよ。何してんのよ、ンなトコで」

背後から唐突に掛けられた声に、三蔵は思わず眉を寄せた。
嫌々ながら振り向いてみれば、両手にいっぱいの荷物を抱えたまま、にやにやと笑う悟浄の顔。傍らには、同じく買い物袋を両手にぶら下げた、八戒の穏やかな微笑みもある。
ち、と密かに舌打ちした三蔵の気も知らず、彼らは口々に話し掛ける。

「お会い出来てちょうど良かったです。後で、貴方の所に行くつもりでいたんですよ。
 でも時々、守衛の方が何故か取り次いで下さいませんから。どうしたものか、困っていたんですよね」
「ったく、三蔵サマよぉ。下っ端の躾くらいちゃんとやれよ。役立たずを門番に置いといても、何の意味もねぇだろうが」
「知るか。あれはあいつらが勝手にやってる事だ。俺がやれと言った覚えはねぇ」

威張るだけの役立たずが鬱陶しいのは、俺も同じだがな。
忌々しげに吐き捨てた三蔵の台詞に、悟浄と八戒が肩を竦めて苦笑いする。
一体何を思って笑っているのか、勿論三蔵には知る由もないのだが。

「――こうして昼間に見ると、本当に綺麗な花なんですけどね」

不意に、八戒がそんな事を言った。
三蔵と悟浄が怪訝な顔をすると、八戒は口元に薄い笑みを刷いて、

「ほら、昔からよく言うじゃないですか。桜の下には死体が埋まってる、って。
 誰が言った言葉かは忘れましたけど、夜中にこの花を見ると、如何にも、って気がして仕方ないんですよね」
「あー、確かに。真っ暗なトコに花だけ浮かんで見えっから、何か妙な気になるんだよな。
 でもよ、その夜桜の妖しさが、また雰囲気合ってたまんなくイイんだよな。風情があるっていうか」
「――ふん。てめェの場合、それで女口説いてコマすだけだろうが。何が風情だ」
「やっだー。三蔵サマったら、お・げ・ひ・ん♪」

茶化した悟浄の表情が、0.1秒の早業で抜かれた銃の前に固まった。
まだ発砲していないのは、春の陽気が些か心を和らげていたためか。それでも、銃口を向けられる悟浄にしてみれば、危ない事には違いない。
両手を挙げて降参の意を示す悟浄の横から、八戒がくすくす笑いつつ三蔵を宥めにかかる。

「お怒りはごもっともなんですけどね、三蔵。でも、今日は勘弁して貰えませんか。
 人手が減ってしまったら、あれこれと不便になるんです。買出しの時とか、いろいろ」
「ふん。荷物持ちくらい、こんなクソ河童でなくとも何とでもなるだろうが」
「そうはいきませんよ。ここまで遠慮なくこき使える方は、なかなか稀有ですから」
「……八戒。その言い草、全然嬉しくねぇんだけど」

笑って言い切った八戒の台詞に、三蔵が渋々ながらも銃口を下ろした。
「あのなぁ、人を何だと思ってるのよ、八戒?」命の危険から脱した悟浄が、何やら八戒に文句を付け始めているが、三蔵はまるで気に止めない。とっくに吸い終えて火の消えた煙草を口から離し、ぴっと指で弾き落とした。
そして。尚も言い合う彼ら二人に背を向けつつ、二本目の煙草に火を点ける。

「ところで三蔵。今日の晩、何かご予定はありますか?」

そのまま立ち去ろうとする三蔵の背に、再び八戒が声を掛けた。
何でも、夜桜を愛でながら酒でも飲むつもりらしい。二人して大量の荷物を抱えているのも、後で自分の元に来る予定にしていたのも、そのためだったそうだ。
「お猿ちゃんが食うモンも、ちゃんと用意してあるからよ」判ったような顔をして笑う悟浄の言葉が、また妙に神経を逆撫でする。三蔵は再び、小さく舌打ちした。

―― 俺の都合はお構いなしか。こいつらは。

買い物袋いっぱいに詰め込んだ、野菜や肉や果物。袋の口から僅かに覗く、何本もの酒瓶の首。
先程の質問にしても、予定を尋ねるというよりは、最終確認に近い響きがあった。恐らくは、断っても無理矢理に押しかけて、悟空ごと自分を外に引っ張り出すつもりだろう。この二人ならば、そのくらい平気でやりかねない。
その際の騒ぎやら後の手間を考えれば、それだけで頭が痛くなってくる。

が、しかし。花見も悪くない、という気持ちも、三蔵の中に確かに存在していた。
素直にそれを認めるのは、些か癇に障りはするが。

「――八時頃、裏門前だ。全部準備を済ませておけ」

ぼそり、と三蔵がそう言うと、八戒は心得たとばかりに微笑んだ。その横では、悟浄が早くも辺りを見回し、宴の場所探しにかかっている。
少し奥まっていた方が、人目につかなくて気楽だよな。小声で漏らした呟きが、かすかに三蔵の耳にも届いた。

三者三様な男たちの上で、桜の花が静かに揺れる。

「んじゃ、また後でな。お猿ちゃんにも、早寝すんなと言っとけよ」
「煩せぇ。てめェに言われるまでもねぇ」
「まぁ、悟空なら大丈夫でしょう。そこまで子供じゃないんですから」

お酒以外の飲み物も、もう少し買い足しておきましょうか。
八戒が悟浄にまだ何か言っているようだが、三蔵は構うことなく踵を返し、立ち去るべく無言で歩き始めた。
あれでは、食い物も少し足りんかもな。一人ごちた三蔵の言葉も、しっかり聞こえていたのだろう。
背後で、悟浄が「後でも一回、車回して行ってくっからよ」と声を掛けてきた。

さて、この話を悟空に聞かせたら、どれだけ喜び騒ぎ立てる事か。
如何様に伝えれば騒ぎが小さく収まるか。三蔵の目の前には、早くもその難題が立ち塞がる。
それに。同伴者の顔ぶれが顔ぶれであるだけに、悠長に花を愛でる余裕があるかどうかも、分かったものではないのだが。
それでも。

―― 夜に見る桜の花も、それはそれで悪くねぇだろうからな ――

らしくもなくそんな事を思いながら、三蔵は再び、天を振り仰いだ。

ふかす紫煙の向こう側に見える空の青が、咲き誇る花の色が、やけに目に染みた。