無言劇

 

by 藤村香今/彩都

 
 
 雨が、降る。



 夜明け前に降り出した雨は、昼頃にはすっかり豪雨となっていた。
 ひたすら西へと進路を取り、立ちはだかる敵を問答無用で蹴散らして、延々と道なき道をひた走る野郎たちも、流石にこんな天気の日には前に進めない。当然、今日は一日ここで足留めを食らうこととなった。
 ぴたりと固く閉じた窓を、雨がひたすらに叩き続ける。ガラス越しに見る外の景色は白く煙っており、家も、路も、植木も、どれも濡れて微妙に重い色合いへと変貌している。
 ほんの少し耳を澄ましてみれば、ざあざあと降る雨音に混じり、ぴちゃん、ぴちゃん、と窓枠を伝い落ちる微かな水滴の音も聞こえてきた。
 この部屋は今、人が居るにも関わらず、一切灯りが点けられていない。勿論、天井にちゃんと照明器具は備え付けてあるし、ちょっと手を伸ばせば、ベッド脇にあるサイドランプも点けられる。なのにこの部屋が暗いままであるのは、偏に、部屋の主が故意に全てのスイッチを消している為だ。
 いかんせん一般大衆向けの廉価な宿であるだけに、大した空調は為されていない。故に、部屋の空気は確実にその湿度を増しているし、ろくに扉の開閉もなされぬがために、完全に澱み切っている。ただ一つ救いなのは、室温そのものがさほど高くないことだろうか。
 ここ暫く一行を悩ませていたあの暑気も、この雨のお陰ですっかり払われていたようで、比較的過ごし易いような気がする。もし室温が高いまま湿度まで上がっていたら、不快指数は測定不能の領域にまで上昇しただろう。
 天井の辺りの空気がが仄かに白いのは、尋常ならざる煙草の消費量のせいだろう。それを裏付けるかのように、三蔵のすぐ傍に置かれたアルミ製の円盤型の灰皿の上には、既に吸殻の山が高く築き上げられていた。
 部屋の主は――三蔵は、窓辺に椅子を一つ置いて腰を下ろし、新聞を膝の上に広げている。法衣をはだけ、足を組み、一見寛いだ姿勢で過ごしているようにも見受けられる。だが、いつまで経っても新聞の頁がめくられる事がなく、眼鏡越しに活字を追う眼差しが、同じ記事を何度も何度もループしていた。記事の内容が頭に入っているかどうかさえ、果てしなく謎である。
 壁際に置かれたベッドの上には、悟空が居た。まるでお気に入りのぬいぐるみを抱く幼児のように、枕をぎゅっと腕の中に抱きしめて、窓辺の三蔵に背を向ける形で座っている。
 いつもはくるくると絶え間なく感情豊かに動く顔は、今は表情を作り忘れているかのように曖昧な色を浮かべ、黄金色の瞳はあらぬ方向ばかりを彷徨っている。何を考えているのか、何も考えていないのか、傍目には全く窺い知る事が出来ない。腹減った、という定番の台詞さえ、今朝は一度も出ていなかった。

 互いに、相手の顔を見ない。言葉一つ交わさない。向けた背中に識る気配だけが、相手の存在を認識する唯一の意識。
 決して気まずい訳ではないが、崩すのが憚れるような絶対的沈黙に、時折、こぼすため息が重なる。

 ざあざあと降る雨の音が、意識にも無意識にも強く働きかける。
 一向に止みそうにないこの雨と同じく、思考が無限にループする。しかも負の方向に偏りながら。
 今の自分に出来ることは何もない。歯がゆいばかりの無力感。あれやこれやと思い悩んだところで、解決策などどこにもないのに。それでも、と足掻くのは、自分が自分であるが故の愚かさか。
 見たくないのに見てしまう。意識したくないのに意識してしまう。普段、胸の奥底に閉じ込めた思いが一気に噴き出す。
 それ程までに嫌ならば、今こうしている時間を、静寂を、自ら破ってしまえばいいのに。
 それすらも出来なくて、ただ、心で不毛な永久運動を繰り広げる。
 一体何をやっているんだと、自分で自分を叱咤しながら。心が、迷情の泥沼に沈んでゆく。

 雨音が、沈黙の内に響く。
 外は勿論、壁一つ向こうに在る筈の気配さえ全てかき消され、自分が、世界の全てから切り離されたような錯覚に陥る。
 日頃の騒動も、果てなく続く旅路の苦難も、何もかもが幻のようにも思えて。
 再び、唇から小さなため息が零れ落ちる。

 否。ここに在る気配はもう一つ。背中に感じる、相手の気配。
 触れ合わずとも、言葉を交わさずとも、その気配だけは、この雨にも決して消えない。少なくとも、ここに在り続ける限りは。

 吸いかけの煙草が、元の形を保ったまま灰皿の上でじりじりと燃えて灰になってゆく。
 素足に触れる綿のシーツに、更に大きなシワが一つ出来る。
 ばさり、と乾いた音を立ててめくられた新聞。くしゃり、と微かな音と共に僅かにへこんだ綿の枕。
 互いに、相手に声を掛けることをせず。相手の名を呼ぶこともせず。
 ひたすらに口を固く閉ざし、常に一定の距離を保ったままの状態で、この部屋に留まり続けている。

 と、突然、悟空がベッドから降りた。
 何も言わずに、悟空が三蔵の元に歩み寄る。三蔵が、目線も向けずに灰皿をすっと差し出す。
 受け渡された灰皿には、今にも崩れそうな程の吸殻の山。悟空はそれを無造作にごみ箱に捨てる。空になった灰皿は、やはり何の会話も交わされぬまま、三蔵の元へと戻された。
 三蔵がまた、新たに煙草に火を点ける。悟空は、また元居たようにベッドの上に座り込んだ。

 まるで何事もなかったかのように、また、不可侵の静寂が二人の間に横たわる。
 二人の距離が縮まることも、広がることもないままに。再び、迷情の無限ループが展開される。
 互いに、背に感じる相手の気配に、内心密かに凭れかかりながら。



 雨はまだ、降り止まない。