Next Morning

 

by 藤村香今/彩都

 
 
「三蔵、おはようっ!」

前日の馬鹿騒ぎから一夜明けた朝、いの一番に三蔵の耳に入ってきたのは、悟空の元気な朝の挨拶だった。
旅の途中の何処かの街の、偶々部屋が空いていたから逗留した平凡な安宿でのこと。昨夜は皆、『三蔵の誕生日』を絶好の口実にして、当人の意思も機嫌もお構いなしに騒いでいた。
酒と煙草の匂いが充満する中で、ようやく場がお開きとなったのは、空の端が白み始めた明け方の頃。
いつ刺客の襲撃が来るか――その事実すら一時失念する程に、皆が騒ぎ笑っていた。勿論、主席である三蔵以外は、という但し書き付きだが。

「……朝っぱらから、でかい声出してんじゃねぇよ」
「もう昼じゃん」
「煩せぇ。起き抜けにてめェの馬鹿面見る、こっちの身にもなってみろ」

言葉が荒くなったのは、別に二日酔いしている訳ではない。単に気分の問題である。
いつもすっきり目が覚める悟空とは逆に、三蔵はいつも寝起きが悪い。元々寺院で暮らしていただけに、二人とも早寝早起きな生活習慣を持っているのだが、その点については全くの正反対である。
よくもまぁ、無駄に元気でいられるものだ。三蔵は内心、呆れるのを通り越して一種の感心すら覚える。

――馬鹿が。

にまにまと、何処か嬉しそうな顔をして自分を見る悟空の眼差しに、三蔵は密かにそう毒づいた。
馬鹿が馬鹿なのは、今更言うまでもない事実である。が、今朝のこの笑顔は、いつも以上に馬鹿に見える。
もしも「馬鹿」に格付けがあるなら、今のこいつは文句無しの最上級だ。三蔵がそんなことを考えていると、

「よし、今年もこれでおっけーっ♪」
「何がだ」

意味不明な悟空の言葉に、三蔵は更に首を傾けた。
やっぱり馬鹿だ。判っている筈であるのに、知らずため息が零れ落ちる。
ただでさえ日常の雑多や雑魚の襲撃が煩わしいのだ。いちいち相手の真意など推し量っていられない。
まして、相手は他の誰でもない、悟空である。この旅を始めるずっと前から、四六時中顔を付き合せている奴なのだ。いちいち頭を悩ませずとも、考えていることくらい手に取るように判る。
判る、筈だったのに。

――馬鹿の頭の中なんざ、判ってたまるか。

判らず戸惑う自分が嫌で、それを認めるのも悔しくて、三蔵がふん、と忌々しげに鼻を鳴らした。
「訳分からねぇこと言ってねぇで、顔でも洗ってこい」寝乱れた金糸の髪をかきあげ、吐き捨てるように言った三蔵の台詞にも、悟空はまるで意に介することなく笑っている。
そして、

「だってさ、誕生日の次の日に、一番に『おはよう』って――今年も、ちゃんと言えたんだぜ、俺!」
「あぁ?」
「今年はさぁ、『誕生日おめでとう』も一番に言えたけど、次の日の『おはよう』もちゃんと言っておきたいじゃん。
 きっちし両方クリア出来て、俺、もぉ嬉しくってさぁ――」
「ちゃんと人間語を喋れ、猿」
「猿って言うなよっ、三蔵! 俺、けっこーマジなんだからっ!」

かちり。三蔵が銜えた煙草の先に、火が点けられた。
明るく爽やかな陽の光が差し込む部屋の中に、燻らされる紫煙が薄く広がってゆく。
揺らめく煙の白い色は、陽光にかき消されて見えない。別に、見る必要もないのだが。

「俺さぁ、ずっと決めてたんだ。三蔵の誕生日の次の日に、三蔵に一番に『おはよう』って言うのは俺だって」
「…………」
「一番に『おめでとう』って言うのは、他の奴も狙ってて取られることも結構あったけど、次の日の『おはよう』は誰も狙わねぇじゃん? だったら、俺が一番になってやろうって思って。
 今年は八戒や悟浄が気ィ遣ってくれたから、『おめでとう』も一番に言えたけどさぁ。でも――」

巧く喋ろう、と焦っているらしく、悟空の口調がいつになく歯切れが悪い。自分でも、相当混乱しているのだろう。
その様を憮然と見やりながら、三蔵は密かに、そういうことか、と一人得心した。



―― 御仏のおわす神聖なる寺院に、何故、不浄の輩が存在を許されるのか ――

長安に居た頃――悟空はいつも、僧たちの敵意と侮蔑に取り囲まれていた。
一切衆生の救済を。口先でもっともらしく仏の教えを説く僧侶たちも、一皮剥けばただの人間である。当然、悟空を快く思わない者も多数存在していた。
三蔵の目の届く範囲内では、誰も何も言わない。が、裏では陰湿ないじめや陰口が横行していたのを、三蔵は嫌という程よく知っている。悟空が落ち込んだり怒ったりいじけたりする様を、何度も目にしてきたせいだ。
毎年、誕生日の朝が来る度に、一部の坊主たちが競って自分の元に訪れたのも、そんな“悟空いじめ”の一端だろう。

オタンジョウビ、オメデトウゴザイマス。

薄っぺらい愛想笑いを顔に貼り付け、恭しく頭を下げる坊主たちが、どれだけ鬱陶しかっただろう。
一体何がめでたいものか。腹の中で悪態を吐いたのも、一度や二度では済まなかった。

三蔵は元々、『誕生日』がめでたい日だとは、爪の先程にも思っていない。
今は亡き師が自分を拾い、愛情深く育ててくれた事自体には感謝しているが、あくまでそれだけである。その日付がいつであるか、そんな細かいことはどうでも良いのだ。
だから。大した意味もないその日を口実にして、ここぞとばかりに擦り寄ってくる連中など、単に煩わしいだけで――毎年、十一月二十九日が来る度に、陰で悟空が残念そうな顔をするのを見る度に、三蔵は密かに陰鬱な気分になったものだ。

だが、まさか。悟空が密かに、そんな決意を抱いていたとは――決意を抱いて、毎年きっちり実行していたとは。
全く気付かなかった。

――この、馬鹿猿が。

好きな人の一番になりたい。
三蔵も、そんな事を考え願った頃が確かにある。故に、無碍に否定するような外道はしない。
が、しかし。自分をそんなに慕ったとて、何か得する訳でもないだろうに。そう思うのもまた、事実ではある。
けれど。

五百年の孤独を経て、それでも悟空が『子供』で在り続けるのは、一体何故のことだろう。
そうして素直に笑える理由は。

悟空は決して、無垢ではない。
三蔵と同じように、悲しむことも怒ることも、他人を憎むことも知っている。手を血に濡らす感触も、他人を傷付ける痛みも。
何もかも知っている筈なのに、それでも悟空はこうして笑う。
いつだって。

そう云えば。今は亡き彼の人も、いつも穏やかに笑っていた。

背負った痛みや傷の数を『生きた証』とうそぶくのは、己が脆さを隠すための悲しい悪知恵。
自分はいつ、そんなつまらない小細工を覚えてしまったのだろう。それが『大人』だと云えるものか。
そもそも『子供』と『大人』の境界線など、有って無きものに等しいだろうに。

それでも、何かに拘らずにはいられない自分が、ここに居る。
何とも無様で不器用だと、自分で自分を嘲りながら。

建前ばかり口にする坊主たちと、自分と。一体何処に違いがある?



「――下らねぇ」

ふぅ、と紫煙を吐き出しながら、三蔵が小さく毒づいた。
その一言に、聞きとがめた悟空が、むくれてぷいっとそっぽを向く。

「いーよ、別に。どうせ三蔵、誕生日の祝いだって喜んでくれねーもん。
 俺が勝手に決めたことなんだし、三蔵が喜んでくれなくたって、俺が嬉しいから」

ベッドの上に座り込み、ぎゅっと枕を抱きしめるその姿は、年齢以上に幼く見える。
それを横目に見ながら燻らせる煙草の味は、何故かいつもより微妙に苦い。苦いが、どうしても手放せなくて、一本目を吸い終えたすぐ後に、三蔵は続けて二本目に火を点けた。
「吸い過ぎじゃねぇの?」他意なく尋ねた悟空の声に、三蔵がぴくり、と眉を吊り上げる。
そして、

「煩せぇんだよ、てめぇの声は。……いつも」
「え?」
「いつまでも馬鹿面してねぇで、とっとと顔洗ってこい。あいつらが起きてきたら、出発だ」
「分かった」

三蔵の台詞に背を押されたように、悟空がひょい、とベッドの上から飛び降りた。
その顔は、表情は、普段と全く同じである。素直に笑い、ひたむきな目で三蔵を見つめる、あの顔だ。
銜え煙草の煙越しに見ても、金晴色の輝きは些かも曇らない。曇らないからこそ、癪に障った。
「さっさと行け」三蔵が荒い口調で悟空を追い立てると、その声に押されるように、悟空が「すぐ戻るから!」と慌しく部屋を後にした。

――あれ以上の馬鹿は、そうそう居るもんじゃねぇ。

胸一杯に紫煙を吸い込み吐き出しながら、三蔵は胸の奥で一人ごちた。
誕生日を迎え、一つ歳を重ねたからと云って、急には何も変わらない。今日も西への旅は続くし、今のところ死ぬ予定もスケジュールに入れていない。ひたすらジープでの強行軍を続け、刺客が来れば返り討ちにする。
『誕生日』など、そうして生きてきた年月の長さを量るための、ただの目安でしかないのだ。そんな日を特別視しようとしまいと、別にどうでも良いではないか。
だから。

『誕生日の翌日』という、巷では特に何でもない一日を――密かに重要視してみるのも、悪くない。
世間一般の常識など、それこそ自分の知ったことか。

大切なのは、体裁より心。
そんな当たり前の事を、悟空に改めて知らされるというこの事実は、なかなかに不快ではあるけれど。
それでも。

「…………」

吸い終えた二本目の煙草を消し、三蔵がようやく腰を上げた。
今日中に発つ。悟空にそう言った手前、自身の準備が遅れては様にならない。保護者の威厳というものは、そう簡単に崩してはならないのだ。
たった今、建前や意地を侮蔑していたばかりだというのに、ついそんなことを考えてしまう。そんな自身の在り様に自分でも呆れながら、三蔵もまた部屋を出て、洗面所へと足を向ける。

「先に顔洗ってきた。八戒はもう起きてて、悟浄はこれから起こすって」
「――俺が戻るまでに、身支度全部整えておけ。もたもたすんじゃねぇぞ」
「判ってる」

洗面所から戻る途中の悟空と、廊下でこんな短いやり取りを交わす。
これもまた、三蔵にとってごくごくありふれた日常そのもので。昨日までと、どこも変わった所が無くて。

「………………」

廊下の窓から見る空の青さが、今日はやけに眩しくて目に染みる。
腹が立つ程に。