No Replay

 

by 藤村香今/彩都

 
 
「――ここも随分静かだよなぁ、今は」

長い渡り廊下の途中の、朱塗りの太い柱にもたれかかって。
中庭をぼんやりと眺めながら、観世音菩薩は誰に言うともなく、ぽつりとそう呟いた。

視線の先にあるのは、青々と葉を茂らせた一本の桜の大樹。
その傍には――今はもう、誰も居ない。

「永久不変のものなんざ、確かに退屈なだけだけどよぉ。
 こんなに味気ないんだったら、あのまま何も変わらねぇ方が良かったかも知れねぇな」

腕を組み、眉間に深い皺を寄せながら。いつになく寂しげな眼差しで、観音はじっと大樹を見つめる。
その唇からこぼれる言葉には、重いため息が混じっていて。普段の豪胆さとは明らかに異なる、寂しさの色がにじんでいる。

ここに誰も居ないことに、もう慣れたつもりではあったけれど。
それでも。ふと気を抜いた瞬間に、色褪せていたはずの寂しさが押し寄せる。
あれからもう、それなりの時間が経っている筈なのに。



そう。かつてこの場所には、様々な光景が存在していた。

『――降りて来い、悟空っ! とっとと降りて来ねぇと、ただじゃ済まねぇぞっ!』
『やだよぉ。だって金蝉、また怒るだろー?』
『お前が書類を紙飛行機にして、窓から飛ばしてやがったせいだろーがっ!』
『おーおー、今日も元気にやっとるねぇ。でも、やっぱりいじめは良くねーぜ、飼い主さんよぉ?』
『何がいじめだ、何がっ!』

大樹の幹によじ登り、枝の上で拗ねる小さな悟空と。地上から大声で怒鳴り散らす金蝉と。
酒を片手に、優雅に高みの見物を決め込みつつも、しっかりと茶々を入れる捲簾と。
二日に一回は繰り広げられる、騒がしくも可笑しい日常の一場面。

あるいは。

『――なぁなぁ天ちゃん、こないだ貸してくれた本さぁ、すっげー面白かったっ!
 あの続き、今から借りに行ってもいい?』
『ええ、いいですよ。新しい本も入れましたから、そっちも見てみますか?
 どうせなら金蝉も連れていらっしゃい。皆でお茶でも頂きましょう』
『うんっ。でもさぁ、金蝉、いーっつも忙しい、忙しいって言ってて、全然遊んでくれねぇんだ。
 本っ当につまんねーよなぁ。あんなにいっぱい仕事して、何が楽しいんだろ?』
『あはははは。まあ、金蝉のことですから……』
『――文句があるんだったら、そこで愚痴ってねぇで直接言いに来い、このバカ猿』

笑ったり怒ったり、子供らしくくるくると表情を変えて喋りまくる悟空と。いつものように本の山を抱きかかえながら、苦笑い混じりに相手をする天蓮と。
運悪くその場を通りかかって、思いきり機嫌を損ねる金蝉と。
時々目にすることのあった、哀れながらも微笑ましい一場面。

あるいは。

『……………………』
『おーおー。姿が見えねぇと思ったら、こーんなとこで昼寝してやがったのか、このチビは。
 ったく、気持ち良さそうにしてやがるぜ。飼い主さんは、あんなに必死に捜し回ってるのによぉ』
『そうですねぇ。でも金蝉が見つけたら、きっと叩き起こして怒るでしょうから。
 今暫くは、そっとしておいてあげませんか? 金蝉には、悪いような気もしますけど』
『……そーだな』

大樹の木陰に転がって、すやすやと気持ち良さそうに眠っている悟空と。心底愛しげな眼差しをして、優しく見守る天蓮と捲簾と。
遠くからかすかに聞こえてくる、金蝉が悟空を捜し回る心配そうな怒鳴り声と。
ほんの一、二度だけ見かけた、暖かな愛情に包まれた一場面。



その総てが、確かにここに存在していた筈なのに。
今はもう、この大樹の他には何もない。



とある事件がきっかけで、金蝉も天蓮も捲簾もその命を落として。悟空は大罪人として、全ての記憶を封じられ、あの五行山に閉じ込められて。
永久に続くかと思われたあの幸福な光景は、突然その終わりを告げた。

久遠の命が保証される筈の天上界で、何の前触れもなく訪れた『死』は。
未だに謎を多く残したまま、真相は総て闇の内に埋もれてしまったけれど。

「それでも、……つい、また『変化』を求めちまうのは、何故だろうな?」

呟く観音の唇の端が、ふと笑みの形に吊り上がる。
そして。組んでいた腕をそっとほどくと、寄りかかっていた柱から身体を離し、大樹へと歩み寄って。
改めて空を振り仰ぎ、その蒼さに目を細める。

「チビは記憶を全部封じられて、金蝉も天蓮元帥も捲簾大将も地上に生まれ変わって。
 それぞれに、新しい人生を歩んでいたのによぉ――」

五百年の時を経て。
閉じ込められていた悟空を救い出したのは、地上へと転生した金蝉童子――今は玄奘三蔵と名乗る、彼だった。
生きることに迷いつつも、軽薄に人生を送っていた沙悟浄――かつての捲簾大将の前には、あの天蓮元帥――猪悟能、後に猪八戒となるあの男が現れた。
そして。とある事件をきっかけに、四人は再び一堂に会した。
かつての記憶など何一つ残っていないのに、何も知りはしないのに。

輪廻転生の理はどこまでも非情で、誰かの思惑を受け入れることもなくて。
運良く同じ時代に生まれたとしても、必ずめぐり逢えるとも限らないのに。偶然に何処かですれ違っても、そのまま通り過ぎてしまうかも知れないのに。

「――それでも一緒に居るなんざ、相当の“腐れ縁”だな、おめーらは」

そんな彼らのその姿には、確かにかつての面影もあったけれど。
明らかに異なる部分もたくさんあって、決して『過去生』と同一視は出来なくて。
ここで騒いでいたあの頃のように、こちらからは気軽に手を出せないことが。
少し、寂しくはあるけれど。

それでも――たまらなく愛しい。
背負う人生の「重さ」に耐えながら、自身の弱さや脆さを強がりで隠しながら。
時折、無様な醜態を晒しながらも、「らしく」生きようとするその様が。

「だからこそ、俺は命令したんだよ。西へと向かうこの旅は、お前ら四人揃って行け、ってな」

そんな彼らの進む道が、どんな未来へと続くか、なんて。さすがに判らないけれど。
かつて天上界で起きた悲劇が、二度と繰り返されぬようにと、心の底から強く願う。
もっとも「今の」彼ら四人は、あの頃よりずっと逞しくて図太いから。どのような困難に出会おうとも、そう簡単には倒れないだろうが。

「――さて、と。そろそろ戻るか。いい加減仕事しねぇと、次郎神も煩せぇしな」

口ではそんな悪態をつきつつも、しっかりと普段通りの微笑みを浮かべて。
観音は一つ、大きく伸びをすると。こきこきと肩を鳴らしつつ、自身の宮殿へと足を向ける。
『今の』彼らの旅の顛末を、その目でしっかりと見届けるために。

この桜の大樹の元に、かつての光景を重ねることも、時にはあるかも知れないけれど。
それでも、ここから見守っていようと思う。過去よりも現在を。そして、遥かなる未来を。
絶えず『変化』を続ける世界を、そこに息づく彼らの、身勝手で愛しいその生き様を。

世界を『見届ける』ためにこそ、『神』は存在するのだから。