通り雨

 

by 藤村香今/彩都

 
 
ばしゃばしゃばしゃばしゃっ!

急に降り出した雨に、あからさまに嫌な顔をしながら。白い法衣を翻して、ばらばらと散っていく人々の合間を縫って。三蔵は一人、雨の市場の中を走っていた。
この一帯の地域は温暖な気候故に、身体が冷えるという心配は不要ではあるが。どちらにしても、あまり気分がいいものではない。
時折、走り去る人々の合間から、はしゃぐ子供たちの嬌声が聞こえてはくるものの。あのように雨の感触を楽しめる程、三蔵は酔狂でもなければ風流人でもない。
雨に濡れてしまうことなど、彼にとっては不快以外の何物でもなかった。

「…………ちっ…………!」

自分たちが滞在する宿まで、このまま走り切ろうかとも考えたのだが。生憎、宿があるのは街の外れで、走るには少し距離があり過ぎる。
ついでに云うなら。こんな無様に走る姿を、仲間に見られることにも抵抗がある。
恐らく悟空は「大丈夫か?」を連発して煩いだろうし、八戒はあれやこれやと必要以上に世話を焼きたがるだろう。悟浄に至っては「此れ幸い」とばかりに、二、三日はからかい続けるに違いない。
かと云って。走らずに歩いて行こうものなら、辿り着く頃には下着までびしょ濡れになっているだろうし。そうなればそうなったで、皆はやはり煩く自分に構いたがるであろう。

例え自分がどうなろうと、放っておいてくれればよいものを。
差し伸べられる幾つもの手を、いちいち払いのけるのも厄介なのに。

皆、善意であると判っているだけに(中にはそうでないものもあるだろうが)。良心が痛む訳ではないが、とにかく断るのが面倒くさい。
などと、いろいろと考えを巡らせるうちに。走り続ける三蔵の視界の端に、一本の木が立っているのが映った。

「………………」

市場の端にある店の脇に、そっと植えられた一本の若木。
青々と茂る枝葉も幹も、そう大きくも立派でもないが。とりあえず雨をしのぐには、充分な大きさであるように見うけられる。
暫し考えた末に。三蔵はその場に足を止めると、その木の下に入る。
生い茂る枝葉の合間から、ぱらぱらと雨の粒が零れ落ちてはいるが。あのまま雨の中に居るよりはましだと、あえて気に止めないことにして。

「…………ダせぇ…………」

が、しかし。雨が降り出してから、そう時間は経っていない筈なのに。髪も衣服も随分濡れて重くなっているし、足袋に至っては絞れば随分と水が出そうである。
べちゃり、と湿り気に満ちた足先の感触は、不快以外の何物でもない。
ほんの少し、煙草を買いに出てきただけなのに、何故こんな目に遭わねばならぬのか。
仰いだ雨空の灰色に向かい、心の中で思いきり罵声を浴びせつつ。三蔵はごそごそと袂を探ると、買ってきたばかりの煙草を一箱取り出して、封を切った。

かち、かち、かち、かち。

未開封だったのが幸いして、煙草は全く無事だったのだが。ライターの方はやはり濡れていたらしく、なかなか巧く火が点かない。
その事実が腹立たしくて、意地になって何度も何度も点火動作を繰り返すうちに。

かちっ。

ようやく、小さな火が灯る。
それで銜えた煙草の先に火を点けると、三蔵は思い切り紫煙を胸に吸い込み、盛大に吐き出した。

「………………」

相変わらず、気分は最悪ではあるが。吸い慣れた煙草のじんわりとした苦味が、少しだけ苛立ちを抑えてくれる。
ざあざあと降り続く雨の中、燻らせる紫煙が風に流されて消えてゆく。
何気なく、目を向けてみれば。あちこちで騒いでいた街の人々も皆、家に帰り着いたのだろうか。はしゃいでいた子供たちの姿さえ、今は全く見当たらない。
地を叩く雨音だけが響く中、仰いだ暗い灰色の空に。三蔵は更に苦い顔をして、小さくため息を洩らした。



元々、三蔵は雨が嫌いである。
部屋の窓に叩きつけられる、嵐のような強い雨でも。しとしとと静かに大地を濡らす、穏やかに美しい雨であっても。
響く雨音は周囲の気配をかき消し、途方もない孤独感に陥らせる。まるで世界中の全てから、自分だけ切り離されてしまったかのような、そんな不安めいた錯覚さえ覚えるほどに。
誰かに構われたり干渉されたり、べたべたと馴れ合ったりするなど好きではないし、むしろ大嫌いだと公言して憚らないのだが。いざ、そのように完全に孤独に陥ると、何故だか無性に寂しさを覚えたりするのだ。
そうして出来た、ほんの小さな心の隙間に――過去の記憶が割り込んでくる。
あの、悪夢の夜の記憶が。



――そう。あの時も、雨が降っていた。


かつて、護りたい人が居た。
この手でずっと、護っていきたいと思っていた。
穏やかに過ぎていく安らかな時間が、あまりに当たり前のように存在していたから。それが失われてしまうことなど、まともに考えたことすらなかった。
日々の小さな喜びや悲しみを、少しずつ積み重ねてゆきながら。師であり父でもあったあの人の背を見つめながら、ずっと従って生きてゆくのだと。信じて疑いもしなかった。
……あの、悪夢の瞬間が来るまでは。

『強くおなりなさい――玄奘三蔵』

あの人が――師が遺した最期の言葉が、ずん、と重くのしかかる。
『三蔵』の名を継いだあの時から、今現在に至るまで。ずっと心の支えであり、同時に戒めともなっている言葉が。
今、こうして振り返ると――あの時には既に、師は判っていたのではないかとも思う。
自身の人生がもう終わろうとしていたことも、弟子であった自分がその後に歩んだ道も、何もかもを。
その真相を確かめようにも、確かめる術は何処にもないので。どんなに思考を巡らせたとしても、決して憶測の域を抜け出ることはないのだが。
三蔵にはどうしても、そう思えて仕方がない。

一見のんびりとした、楽天的な人ではあったけれど。時折聞かされたお気楽な言葉に、絶句させられたことも何度もあったけれど。
それでも。穏やかで厳しいあの眼差しには、如何なる嘘偽りも通用しなかった。
何処の誰が相手であっても、瞬時に嘘と真実とを見極めて。時には菩薩の如き慈愛をもって、時には明王の如く厳しさをもって、迷える者全てを救済すべく、常に心を砕いていた。
その両肩に掛けた『聖天経文』にふさわしく、その法名に戴く『光明』の如く――その存在そのものが、自分にとってはまさに『導きの光』だった。

否。あの頃だけではなく、今でも導かれているのだと思う。
師が自分に語り聞かせた言葉は全て、しっかりと心に残っているのだから。
幼いあの時には理解しきれなかった事柄でも、折々によく思い返して。師の真意を違える事無きようにと、常に自分に言い聞かせている。
それは。僧侶としての知識を会得してはいても、まともに神仏を信じない自分にとって。
唯一、信じられるものであり、たった一つの心の支え。

だけど。
心から信じてはいても――その教えを貫き通せる程、自分は決して強くない。
あの時から幾らかは歳を取り、身体も随分と大きくなったけれど。この手は相変わらず無力なままで、師が願ったであろう姿にも、己自身が掲げる理想にも程遠い。

この手で出来ることと云えば、拳銃の引き金を引くことと。師より受け継いだ『魔天経文』を、必要に応じて紐解くこと。
それ以外、と云えば――せいぜい、悔しさに拳を握り締めることくらいで。
結局、大したことは何も出来ていない。

弱くて、脆くて、忌々しくて。
時には己が握るこの銃で、自らこめかみを撃ち抜いてしまいたくなるけれど。
それすらも満足に出来ぬ程に――自分は無力で、情けない。

こんな自分の今の姿を、もしも師が目にしたら。
どのように思うだろうか?



「…………くだらねぇ」

最後まで吸い切った煙草を、ぽい、と足元の水たまりに投げ捨てて。三蔵は小さくかぶりを振って、自身の考えを打ち払う。
そして。未だ湿り気の残る前髪を、無造作にかき上げながら。もう一度空を仰ぎ見て、忌々しげに小さく舌打ちをした。

自分が強いかどうかなど、今は考えている暇など無い筈なのだ。
この旅は、決して遊び等ではない。『牛魔王復活を阻止』という一応の目的があるのだし、何より師の形見である『聖天経文』を奪い返せる可能性もあるのだ。
行く手を塞ぐ者が居れば、全て殺してしまえばいい。例え、何処の誰が相手であっても。

それに。

『三蔵ぉーっ、腹減ったーーっ!』

今、自分が進むことを辞めてしまえば――その後、誰があの猿の面倒を見るだろう?
あんなに大食らいで、煩くて、馬鹿で、ひたすら手のかかる厄介者だから。他の誰かに面倒を押し付けるのは、さすがの自分でもいささか気が退ける。
本人がどう思うかは知ったことではないが、こんな厄介者を背負い込む不運は、取り敢えず自分だけでいいのだし。
あの頭を殴るためのハリセンも、自分以外には誰も持っていないだろう。

だとしたら。やはり自分は、ここで立ち止まる訳にはいかない。
こんな時にあの猿の顔が浮かぶなど、少々腹も立つけれど。間違っても、他人のためなどではないけれど。
今、進んでいるこの道が、自分の選んだものであるならば。躊躇している場合ではないのだ。
もしもここで立ち止まったら――いつまでも、自分は弱いままではないか。

だから――やはり、雨は嫌いである。
過去の記憶が目の前にちらつくのも、今更な後悔が蘇るのも。下らない自己嫌悪に陥って、どんどんと気が滅入っていくのも。全ては、この雨のせいで。
こんな雨さえ降らなければ、こんなに弱い自分の姿を、改めて思い知らされることもないのに。
例え虚勢だけだったとしても、取り敢えずは「強い」ままで居られるのに、と。逆恨みにも等しい罵詈雑言を、心の中で思い切り叫んでみる。



と、その時、

「……………………」

二本目の煙草を口に銜えて、火を点けようとして。三蔵はようやく、気が付いた。
降り続けていた雨が、いつの間にか止んでいたことに。空を覆っていた雨雲の隙間から、かすかに太陽の光が差し始めたことに。
地面の至る所に水たまりが出来ていて、足場はやはり最悪ではあるが。雨が降っていないなら、もう雨宿りする必要もない。

――早く戻ろう。居るべき場所へ。
あの煩い旅の同行者たちも、多分自分の帰りを待っている。
それがどうという訳でもないが、これ以上遅くなってしまっては、面倒事が更に増える。
面倒事が増えてしまっては、また銃を撃つ羽目になり、弾も無駄に消費してしまう。
そんなイカれた日常は、決して愉快ではないけれど。苛立つことがあまりに多くて、つい煙草の本数も増えてしまったけれど。
それでも――

「…………ふん」

銜えていた煙草をパッケージに戻して、再び袂にしまい込むと。三蔵は再び正面に目を向けて、ためらうことなく歩き出す。
進む足元のあまりの悪さに、不快さを顕わにするけれど。次第に晴れ間が広がってゆく空の下、差し込む光明に目を細めつつ。三蔵はただただ歩いてゆく。

自分の部屋に帰り着いたら、先ず服を着換えよう。
もしも誰かが煩くまとわりついたら、容赦なく制裁を加えてやる。
ハリセンか銃弾か、どちらを使うかはまだ決めていないけれど。とにかく「いつも通り」の自分のペースで、問答無用でぶちのめしてやる。
誰にも、文句は言わせない。

その紫暗の瞳の奥底に、更なる強さを輝かせつつ。
そんな極めて些細なことを、頭の片隅で考えながら。