歌姫

 

by 眠林

 
 
「…………振られましたね」

テーブルに帰ってきた悟浄に、八戒は、ニヤリと笑って言った。
前方に設えた舞台には、美しい歌姫が登場している。先刻まで悟浄が口説いていたのは彼女だ。

「今夜はお偉いさんの席にも呼ばれてるんだとよ。こんなイイ男の誘い断って、じじいの相手したってつまんねーだろうによ」
「まあ、あちらもお仕事ですから」

曲が始まる。
前奏に合わせて居ずまいを正す彼女の衣装が、ふわりと揺れた。

「歌聞くだけなら、別に野郎でもいーじゃねーかよ。いい女の夜は、いい男のために空けとけっての」
悟浄は不満そうだ。そうは言うが、八戒の聞く限りでは、彼女の声は中々のものだ。
恐らく、今日の歌い手の中では一番だったために、上に召されたのだろう。
「あの女性の代わりになるほど、上手な方がいらっしゃらないんですよ。仕方がないですねぇ」
「やっぱ、女の声が一番、聞いててイイもんなぁ」
何だかんだいって聞きほれている悟浄を見て、八戒は苦笑した。
「でも、"この世で最高の歌声”とされるのは、男性の声なんですよ」
「ほお。そーかねぇ」
「正確には、男性というより少年ですね。ボーイソプラノを維持するために去勢を施した"カストラート”と言う人々が居たくらいです」
八戒は、人差し指をぴっと立てて、解説モードになる。
「他の芸術においてもそうですね。更に、建築、服飾、料理に至るまで、総合的に殆どのジャンルにおいて、男性の功績や技量は女性を凌駕している筈なんです。でも唯一、男性が女性を越えられないことは……」
「子供を産むこと……か」

流れるような弁舌を遮って、悟浄はぽつりとつぶやいた。

「それがある限りずっと、俺らはあいつらに勝てねーんだろうなぁ」

舞台の上からは、高く、低く、美しい歌声が響いてくる。
八戒は後悔する。
女性を、子供を産む性を、より畏れているのは、本当はきっと悟浄の方だ。

「ええ。結局、僕らは皆、女性の胎内から産まれて来ている訳ですから……」

差し障りのない話題に転じる事も出来たはずだったが、敢えてしなかった。
そんな事で、この勘の良い男を救えるとも、毛頭思わない。

「ホント、凄げぇ生き物だよな……。女ってのは……」

流れる歌姫の声が、静かに、悟浄の言葉を絡めとっていった。
何か、強大な力に膝を折るような心持ちで、八戒は言った。

「つまり、彼女達は、その存在そのものが偉業なんです。その周囲で、じたばたと踊っているのが僕達なんでしょうね」

口では一般論を語っているが、心中思い出すのは、2人の女性。
自分にとっての花喃。悟浄にとっての……。

「おふくろがさ……」

八戒の心臓が、どきん、と、1つ、跳ね上がった。
思考を読まれていたのかと言う、不条理な考えさえ、頭をよぎる。

「あの歌、好きだったんだわ」

流れるのは、恋の歌。

「俺に聞かせるって訳じゃ、ぜんぜんねぇんだけどさ。よく、歌ってんの、聞いたんだわ……」

漂う旋律が、八戒の思考にも絡み付いてくる。
悟浄の母。
夫を愛して、夫を独占することが叶わずに、死ぬまで苦しんだ女。
血を分けぬ子をついに愛することが出来ずに、血を分けた子に殺された母。

「……まだ、歌ってる奴が居るなんて、なぁ……」

場違いな記憶が、不意に、八戒の中でよみがえる。
昔、勉強の合間に図書館で読んだ本。生物学か、心理学の類の本だったように思う。

――――生物には「自己の遺伝子」を保存する本能と、「自己の属する種」を保存する本能が、それぞれある。
……自己種の保存の本能は、血縁のない個体を育む心理に、自己遺伝子の保存の本能は、血縁のない個体を攻撃する心理に、それぞれ表れる。
……大型の哺乳類などが他の個体の産んだ子を育てることは、「自己種の保存」に、鳥類などが他の巣のヒナを追い立てて殺してしまうのは、「自己遺伝子の保存」に、それぞれ基づく本能である。――――

悟浄は成長し、生きている。爾燕…独角も同じだ。
彼女はこれを、是とするのか非とするのか。
…いや、そんな風に二者択一で考えること自体、男の詭弁でしかないのではないか…。

八戒の思考が、もう一回、転換する。
悟浄の口からすら、殆ど語られたことのない女。そもそも、彼が覚えているのかも判らない女。
悟浄の本当の母親は、どんな女性だったのだろう……。





歌姫の声が、恋を歌い、愛を語り、神に祈る。
高く、低く、強く、儚く。

「奇麗な声ですよね」
「ああ」

悟浄の育ての母。
悟浄の実の母。
悟能の姉、花喃。

結局、女性というものは、男性より遥かに強く、『生物』であるのだ。
そして、僕達は――――。





喝采が巻き起こる。照明が一段強くなって、舞台を照らし出した。
悟浄も手を叩く。いつも通りの顔で。
そう言えば、彼は、僕たちの中で唯一、「母」を知っているのだ…。





光の中でしなやかに礼をする女の姿を、八戒は、いつまでも、畏怖を持って見つめていた。