花街での一仕事

 

by ひいらぎ夏水 / 波水

 
 
 参った、と一人ごちる。
 単独任務の帰り、通りすがりに近道を聞いてそのまま歩いて行くまでは良かった。一刻もしない内に嗅ぎ慣れない色んな匂いが混じって来た。それは女性の使う白粉や紅の匂いだったり、男性から放つ酒の匂いだったりと様々だが、何よりも一番感じるのは、それぞれの奥に潜んだ欲の匂いだった。
 
「確かに、ここを突っ切れば近道ではあるんだが、なあ」
 俺は思わずため息をついて花街の入り口のど真ん中で立ち止まる。しかし通行人の邪魔になってはならないので、そそくさと端に寄ったのが不味かった。
「あら、素敵な方」
 とろりとした甘い声に反応すると、朱色の格子の向かい側で、美しい遊女が妖艶に笑んでいた。遊んでいかない? と問われ、慌てて飛び退って、早足でその場から離れる。恐らくこの調子だと、確実にあちこちから引っ張って行かれる羽目になるのは想像に難くないだろう。
 こうなれば仕方ない、と覚悟を決めて、とりあえず突き進んでこの花街から抜けることにしよう。
 ふと、少し昔を思い出した。あの時は三人で揃って凄い化粧で変装して、遊廓に潜入したのだった。あれはあれで貴重な体験となったが、もうやりたくないのが本音だ。
 突き進む間にも、様々な匂いがやってくる。誘惑しようとするもの、奇異の感情、或いは好奇心といったものまであって、正直言えばかなり鼻が辛い。鼻の奥がむず痒くなって、くしゃみが出そうだ。
 その時、不意に違和感を感じた。やたらと良い俺の鼻が、微かに慣れ親しんだ匂いを嗅ぎ取ったのだ。温かく柔らかい、たんぽぽのような優しい匂い。こんな匂いを持つ奴は一人しかいない。
 さてはこの花街で遊ぶために来ているのか、と若干の苛立ちを感じつつ、辺りを注意深く見回してみる。しかし、視線をいくら彷徨わせても、あの特徴的な頭をした匂いの元が見つけられない。勘違いかな、と思いながら一つの大きな建物に目をやった。朱色だらけの格子の奥で、のんびりとした様子で顔を伏せた美女が座っている。傍目にも珍しい金色の髪。長く伸ばしたであろうそれを結い、幾つもの豪奢な簪で飾っている。あいつみたいだ、と思った。が。
 いや待て。本当に待て。あの匂いが、遊女からしているということは、一体どういうことだ。
 俺からの視線を感じたのか、彼女が顔を上げる。ふわりと開いた柔らかい琥珀がこちらを見て、あっという間に見開かれた。
 うん、わかる。なんでいるんだよ、って顔だよな。俺も今、同じ気分だから皆まで言うな。
 でもそれは一瞬のことで、唇だけが微かに動いた。
 ――曰く、とりあえず来いと。

 件の館に入り、店の者に声を掛ける。どう説明すれば良いかわからなかったが、あちらから話はつけておいてくれたらしい。お話は伺っております、と丁寧に頭を下げられ、館の奥にある離れに案内された。聞けば、この館では一番上等な部屋で、常ならば要人や身分の高い者が使うそうだ。
 襖を開けると、部屋はかなり広かった。置かれた鏡台や敷物も、一目で高級な品だろうと察しがつく。待つことしばし、酒や肴といった料理を載せた膳が運ばれてきて、俺の前に静かに置かれた。持って来てくれたのは、おかっぱに愛らしい紅葉の髪飾りを差して、茜色の着物を着た子供だった。
 ありがとう、と言葉を掛けると、ぺこりとお辞儀して、その場から立ち去っていく。すれ違いに、静々と三味線を抱えた遊女が入って来て、深々とお辞儀する。楽器を置台を据えたかと思うと、びしっとこちらを指差した。
「何でここに来てんだよお前っ!?」
「お前こそ何でここにいるんだよ!?」
 開口一番にそんな応酬をする羽目になった。
 何故ならば、目の前で仁王立ちする遊女らしき人物こそ、俺の同期で親友の一人、我妻善逸だったからだ。
 
 さて、少しだけ話を変えよう。
 鬼舞辻無惨が斃れた後も、ある一定数鬼は生き残っていた。彼らは無惨の呪縛から逃れ、前ほどではないが新たな脅威となりつつあった。
 鬼は人を食らって力をつけ、またその血を与えて鬼を増やす。その為、一刻も早く鬼を狩る必要があった。
 だが、それを行えるだけの戦力は乏しいと判断を下したのは、当代のお館様だった。現状を打破する為の策として、俺と善逸、もう一人の親友である嘴平伊之助の三人を急遽柱として任命したのである。俺と伊之助が十七、善逸が十八の時だ。
 伊之助は獣柱。
 善逸は鳴柱。
 そして、俺は日柱として、新たに鬼狩りの任務に赴くことになった。
「……というのが基本情報だな」
「いや、誰に言ってんだそれ」
 明後日の方向を向いて解説する俺に、じっとりした視線のツッコミが入る。
「それはそれとして」
 さりげなく躱し、ちらりと遊女の恰好の善逸を見る。背丈こそ俺より少し高いが、どちらかと言うと中性的で整った顔立ちの彼は、見れば見るほどその豪奢な着物が様になっていた。当の本人は「頭が重い」と言って、簪をさくさく抜いていっているが。さらに綺麗に結い上げられた髪を解き、軽く左右に頭を振ると、しなやかで真っ直ぐな金糸に戻ってしまった。
「はー、やっと軽くなった。重いんだよなホント」
 ぶつくさ言いつつ、手櫛でざっと髪をまとめて高く結い上げる。手持ちの組紐で結ぶと、いつもの善逸の姿になる。……まあ、白粉と紅はそのままなんだが。
「で、善逸は何でここに?」
「潜入任務だよセンニューニンム」
 とりあえず、聞きたかった事を改めて聞くと、右手をひらひらさせながらぶっきらぼうに答えた。いつもの匂いに少し混じる、嫌そうな感情の匂いから、どうやら渋々といった様子だろう。詳しく聞くと、この辺りの花街で人がいなくなるという噂が立っているらしい。隠の報告によれば、遊女から禿の子供まで、行方知れずになっている数は十数人にも及ぶ。最後に行方知れずになった時には、多数の血痕が残っていることから、人殺しかとも囁かれた。
「ちょっと一服いい?」
「ああ」
 頷くと、善逸は鏡台の引き出しから煙草入れを出してきた。装飾の少ない煙管に刻み煙草を詰め、慣れた様子で火を付けて燻らせる。
「鬼が関わってるかも、って話は、別の館の使用人が見たらしいよ。鬼が子供を喰ってる所を目撃したんだと」
 その使用人は、のちに恐怖の余りに館から逃げるように出ていったという。ともあれ、鬼が出たとなればこちらの仕事という訳だ。
「ここ、あの派手柱からの紹介なんだよ。昔ここの主人を助けたからって」
「宇髄さんの?」
「そう。てかここ、一応藤の花の紋が掲げてあるんだよね。俺も最初気が付かなかったけど」
「え? ここが?」
 流石にそれには驚いた。事実、どこにも藤の花の紋が見当たらなかったのだ。
「まあ、花街の中にもあるとは普通思わんよな。裏口には掲げてあるらしいけど、ともかくあのおっさんの口利きで入り込むことになった訳」
「なるほど、な」
「まあ勿論、初めは女の子にやらせるつもりだったんだろうけどね。それこそ、アオイちゃんやカナヲちゃんとか。でも、あの子達は蝶屋敷があるからさ」
「ああ、確かに」
 隊士達のための医療機関である蝶屋敷は、主人だったしのぶさんに代わりアオイさんとカナヲの二人が中心となって運営されている。重要な役割の一端の担う彼女たちを潜入任務に送るのは無理だろう。
「あと、仮にアオイちゃんが送られたとしたら伊之助がキレるし、カナヲちゃんだとしたらお前がキレる」
「うん。確実にキレる。伊之助は」
 大暴れする伊之助が容易に想像出来て恐ろしい。カナヲは強いし、彼女自身も新しく花柱として任務に着く立場だから、大丈夫だろう。心配ではあるが。
 ――訂正する。凄く心配だし、何かあったら多分俺も黙ってはいられない。
「で、禰豆子ちゃんだと俺とお前が盛大にキレる」
「当たり前だろう。禰豆子は隊士でも何でもない一般人だぞ」
「だから、消去法で俺になった訳」
 そう言って、善逸が肩をすくめた。それに、潜入任務の実績もあるしね、と自虐的に苦笑する。それに関しては、俺も同じ立場に立ったから、余り自慢できるものではない。
「ま、それはそれとして一応芸事なら覚えがあるし。芸妓として潜り込んでりゃ行けるだろって判断みたいよ」
 嫌だけど、と付け足す辺りは男として複雑な気分があるらしい。つーかこれ一人で鬼狩れって事じゃん俺死ぬんじゃない? 等と続けざまに捲し立てる。昔だったらもっと喧しくひっくり返っていたのが、だいぶ落ち着いたものだと感心する。
「さて」
 こん、と煙管から煙草を小さな火鉢に落とし、煙草入れに片付けると、置台から三味線を持ち上げてゆったりと構える。左手の親指と人差し指に小さな布状の物を巻き付け、弦を爪弾きながら彼はにっと笑みを浮かべた。
「せっかくだし、一曲聴いていって頂けますか、お客人」
 あ、その料理食えよ。勿体無いから。と撥を握った右手で膳を指して言うと、深い呼吸を一つ、すっと背筋を伸ばす。
 ぺん、と撥が弦を優しく弾いた。
 
 俺は学がないから、どんな曲なのかわからない。しかし、善逸が奏でる音は優しく、どこか物哀しさもあるのが分かった。追い掛けるように唄声が継ぐ。伸びやかで透き通るような、耳馴染みの良い声音を聴きながら、酒で唇を湿らせる。
 朗々と唄う彼の横顔は、いつもの喧しさからは想像出来ないほど優しく、穏やかだった。時々目を伏せ、囁くような唄声に、どんな思いで唄うのか、思いを馳せる。儚く、時には哀しく、語るような唄がゆっくりと溶けるように消え、また三味線の優しい音色が引き継ぐ。
 たっぷりと間を置いて、最後に撥でぺぺん、と弾くと、善逸は傍に三味線を寝かせ、指を揃えて深々とお辞儀をする。
「余興ではございますが」
「いや、見事だったよ」
 思わず拍手した。彼が紡ぐ世界に引き込まれた気分だ。
「うふん、アタイに惚れ直しちゃった?」
 ちょっと褒めただけで大袈裟にしなを作って流し目気味に言う善逸が面白くて、俺はぶふっと吹き出した。何だよそれ! とくるくる変わる変顔は、やはりいつもの善逸だ。というか、その化粧した顔でオネエ言葉で言われると変に面白いんだが……言えば傷つきそうだしやめておこう。その代わり、披露してくれた唄のことを聞いてみる。
「そういえば、どんな唄なんだ?」
「恋の唄だよ。どっちかと言えば悲恋、になるかな」
「悲恋、か」
「ある遊女が、旦那様に恋をした。けれど旦那様にも立場はあるし、どうせ結ばれぬ恋ならば、来世で結ばれよう……ってね。ここいらでは良く唄われてる」
「なるほど」
「ま、俺は唄わないけどね。それこそ一発で男ってバレるし、別の姐さんに唄って貰ってる」
 だから、俺はこっちだけ。と、傍の三味線を優しく撫でた。
「と言うことは、俺は善逸の唄も三味線も、両方聴けたってことだな」
「そうよー。旦那様の為に特別っ」
「待ってくれ、誰が旦那様になったんだ」
「そりゃお前だよ。仮にも客として来たんだから、須く旦那様って訳だ」
「それはだって、お前が来いって言ったからだろう?」
「まあね。あの四角四面の堅物長男がこんなところに彷徨いてるんだから、やっぱ若いやねぇ」
 うひひ、と気持ち悪い笑い方で揶揄ってくる。
「いや、ここを通りがかったのはたまたま近道だっただけで」
 情けないが、弁解しようと言い訳が口をついて出たその時。
「……炭治郎」
 そっと、低い声が俺に囁く。それに頷き、鼻をすん、と動かした。きっと、彼の超越した耳にもその音が分かったのだろう。
「この館からそう遠くないところ、鬼がいる。……方角までは分からないけど」
 怖いけどな。こっちがやらなきゃ死ぬだけだしな! ぶつくさ溢しながら、善逸が立ち上がった。どうやら腹は括ったらしい。
「この館は多分大丈夫。藤の香を焚き染めてるから、鬼は近寄れない」
 だから、と俺を見た。
「俺は上から行く。炭治郎は、この館の人達を頼む」
「わかった」
 頷いて、俺は部屋を駆け出した。
 
 廊下を直走り、正面の玄関まで来ると、番頭に座っていた男性がぎょっとした顔でこちらを見た。そちらへ駆け寄り、この館の主人はどこか尋ねる。
「へ、へぇ。わたくしがそうですが」
「鬼が出ました。この館には来れないとは思いますが、念のためにここの客人や皆に知らせて下さい」
「ひっ!? お、鬼ですか?」
「絶対にこの館から出ないように伝えて下さい。あと、藤の香のお守りはどのくらいお持ちですか?」
「お守りは充分な量がございますが、旦那様は?」
「俺は鬼狩りです。館から出る人は引き止めて、お守りを持たせて下さい」
「は、はい! すぐに!」
 叫んで、ばたばたと駆け出した主人を見送る。さて、俺も動かなければ。
 忙しく歩き回る使用人を捕まえて、主人と同じ内容のことを手短に話す。血相を変えた彼は、かしこまりました、と返して客人や遊女達にも伝えて回って貰う。何度か繰り返し、館にいる人々の安全を確保できたことを確認した頃、一人の遊女が青い顔で縋り付いて来た。
「旦那様! あかねが、あかねがいないんです!」
「あかね?」
 遊女の出した名前をおうむ返しに聞き返すと、一人だけ近場の館まで遣いで出掛けた者がいると言う。
「分かりました、その子の事を教えて頂けますか?」
 俺が頷くと、遊女は出ていった子の特徴を簡単に説明してくれたが、その特徴に思い当たる顔があった。部屋に入った後、俺に料理と酒を届けてくれた禿の子だ。
「あかねさんは、必ず見つけます。貴女もこの館から出ないで待っていて下さい」
 しっかりと目を見て、強い声でその子の安全を約束する。遊女はこくこく頷いて、その場で顔を覆って崩れ落ちた。
 玄関まで戻り、腰に括り付けていた狐面の紐を解いて外す。挿している日輪刀を隠すために下げていたそれを自分の顔面に宛てがうと、頭の後ろで結んで固定した。紐の端に付けた鈴が、ちりん、と微かな音色を立てる。
「さて、行くか」
 鬼を狩るため、俺は玄関から飛び出した。
 
 入ってきた時とは打って変わって、辺りに立ち込める匂いがさらに複雑になっていた。怯え、恐怖といった匂いがあちこちから漂っている。俺が入った館が一番大きな所だったのか、異常な雰囲気に他の館にも伝播したのかもしれない。鼻に意識を集中して嗅ぎ分けると、あの館を中心に藤の香の匂いが広まっているのが分かった。
 恐らく、主人や館の使用人達が、周りの館の人達にも配り回っているのだろう。周りの人達の身を守ろうとしてくれているのが、ありがたいと思った。応える為にも、一刻も早く鬼を見つけて狩らなければ。
 呼吸を全集中の呼吸に切り替え、身体能力の増加を図る。
 俺は両足に力を入れてその場で跳躍し、二階の手すりに捕まった。そのまま腕の力で身体を起こし、足を手すりに掛ける。と、その二階から悲鳴が上がった。
「あ」
 手すりの向こう側で、衣服の脱げかけた男女がぴったり抱き合ったままこちらを凝視していた。見ちゃいけないものを見てしまった罪悪感で顔が赤くなったが、狐面のお陰で悟られはしない、と思う。
「すいません、失礼しました!」
 思わず大声で謝罪してしまった。でも声がどもってる。動揺してるな、俺も。
 手すりを足場に、そこからさらに跳躍する。どうにか屋根の上に着地すると、すでに待っている人影があった。
 金髪を靡かせ、日輪刀を腰に据えた善逸の姿。……なんだけど。彼はあの着物のままで立っていた。ついでに、化粧もそのままだ。
 重そうなのに大丈夫だろうか、という余計なことはひとまず置いといて、善逸に声を掛ける。
「鬼は?」
「恐らくは七時の方向。他の館には紛れてない」
「あかねさんって子がいないそうだ」
「あかねちゃん……ああ、俺に付いてた子か」
「出来ればその子も探したい。彼女の音を探せるか?」
「わかった。やってみる」
 答えて、善逸は目を瞑って其々の手を耳にかざす。もっと正確に音を聞く為だ。暫くして、やや苦い顔でこちらを振り返った。
「ちょっと不味いかも。同じ方向にいるみたいだ。鬼に捕まってるかもしれない」
「急ごう」
 頷きあって、善逸の言う七時の方向に走り出そうとした瞬間、
「炭治郎!」
 鋭い声に、反射的に真横に跳躍する。俺のいた地点に礫のような物が炸裂して、じわりと屋根瓦が不快な匂いを漂わせて溶けた。
 その間に、善逸は戦闘態勢に入っていた。足場の悪い屋根瓦の上にも関わらず、腰をぐっと低く落とした居合いの構えを取る。唇の端から独特の呼吸音が漏れ始めた。
 見つけた。
 一見貧相な男のようにも見えるが、女物の着物を幾重にも羽織って、鞭のような長い腕がだらりと垂れ下がっている。禍々しく裂けた口からは、やはり長い舌が伸びてこちらを睨め付けた。
 幾重にも重なった着物の奥に、黒いおかっぱ頭が見えた。そこから覗く紅葉の髪飾りは、間違いなく俺に膳を運んでくれた子のものだ。
 息はあるのか分からないが、とにかく助けないと。
『わしの、わしのじゃまをするなああああ』
 濁った声を上げながら、鬼が腕を上げる。開いた手のひらから、ちょっと公にはいい辛いモノがにゅっと伸びてきた。その先端がはくはくと口を開けたかと思うと、いくつもの礫が撃ち出される。
 俺と善逸、其々に向かって襲いかかる礫をひらりと避ける。呼吸の集中が途切れた善逸が、微かにちっと舌打ちした。
「何あれ、キモい鬼だな」
「あの礫、なんだろう。血気術なのは分かるけど」
「礫ってゆーか……子種?」
「子種て」
 屋根瓦が腐食して溶けるような子種など、絶対に浴びたくない。横で善逸も分かる分かる、と頷いた。
 軽口を叩きながら、奴との間合いをはかる。
 そんな中、焦れた鬼があのモノを身体中から幾つも伸ばしてきた。キモいしグロい。二人揃ってうわあ、とドン引きしそうになるが、生命をかけたやり取りなのだ。引いている場合じゃない。
 俺はちらりと善逸を見た。彼はこちらの意図を読んだのか、小さく頷く。それだけで、お互いの意思は完全に一致したようだ。
 親指で鯉口を切り、日輪刀を抜いた。両手で構えて、自分の呼吸を切り替えて駆け出す。
「おおおおっ!」
 裂帛の気合と共に肉薄するが、奴はにたりと笑い、あの教育上よろしくない触手を俺目掛けて伸ばして来た。四方八方から襲ってくるそれを躱し切れるのは無理、だが。
「水の呼吸、参の型……流流舞い!」
 文字通り、舞うように触手を捌いて、斬り伏せ――にやりと笑う。
 何故なら俺は、囮だからだ。
「いけ、善逸!」
 叫ぶ声に応え、俺の背中を足場に善逸が飛んだ。あの独特の呼吸音が、再度唇から漏れる。
「雷の呼吸、壱の型」
 琥珀の眼差しに、翻る髪に、青白い稲妻が微かに爆ぜる。
「――霹靂一閃!」
 激しい落雷の音と共に、その刀は鬼の頸を断ち斬った。
 
 撥ねた頸がごとりと落ち、次いでさらさらと崩れ始める。断末魔の叫びは、金に任せて女性に溺れた末の、自業自得で身勝手な怨嗟だった。いつもならその境遇に手を合わせて来世の祈るのが常だが、今回ばかりは流石にそんな気もおきない。
 お互いに深く息を吐いて、集中の呼吸を解いた頃、下の方から聞き覚えのある声がした。
「鳴柱様、ご無事ですか! と……あれ、日柱様まで、何でいるんですか?」
 全身黒ずくめの隊服と頭巾で顔を隠した隠の部隊の一人だが、俺も善逸も誰かは分かった。一般隊士の頃からあれこれと世話になっている後藤さんだ。
「あー、後藤さんお疲れっす」
「お疲れ様です、後藤さん」
「だから俺にまで敬語で喋るのやめて下さいよ、日柱様! 貴方一応偉いんだから!」
 軽い調子の善逸といつも通りに頭を下げる俺に、後藤さんは慌てた様子で捲し立てる。そこまで偉くなった覚えはないんだが、他の隠の人達は呆気に取られていた。
 軽口は程々に、善逸が周囲の被害状況をざっと確認して、後始末の処理を指示する。彼らは承りました、と膝を付き、散り散りになって動き出した。
 今まで喰われて亡くなった人はどうしようもないが、少なくともこの騒ぎでの怪我人はいない。藤の花の紋を掲げた館の人々が、尽力してくれたおかげだろう。
 ……それよりも。
 鬼が斃れた場所を見やると、着物の間から禿の子を引きずり上げる善逸の姿があった。
「大丈夫。着物でぐるぐる巻きにされてたけど、息はある。怪我もないし、鬼の音も聞こえない。人間のままだ」
 そう言って、安心したように薄く微笑んだ。よかった、と心から思う。彼が軽く頬を突いてやると、おかっぱ頭の少女は薄く瞼を開いた。
「……あ」
「よかった。あかねちゃん、怖い思いさせてごめんな」
 あかねさんの顔を覗き込んで善逸が優しく言う。みるみるうちに彼女の目から涙が溢れ、その胸板に飛び込んだ。
「怖かった……怖かったです、姐さま!」
「うん。もう大丈夫、悪い鬼は、俺たちがやっつけたから、ね」
 言葉と同じくらい優しい手つきで頭を撫でる善逸に、彼女の動きがぴたりと止まる。
「……え、姐さま、俺? え?」
 ……もしかしてあかねさんは、今まで善逸が男だと知らされていなかったのだろうか。善逸本人も、あれ? という顔で彼女を見る。
 ぺたぺた、善逸の胸のあたりを触る。というか、割とがっつり撫でている。涙はすでに止まって、蒼白な顔になった。
「姐さまっ……兄さまだったんですか!?」
 素っ頓狂な彼女の叫びに、俺は耐え切れず爆笑した。
 
 その後。
 鳴柱邸に元禿だったという少女が訪れて、『兄さま、弟子にして下さい』と土下座するのを、善逸が大慌てで宥めるのだが、それはまた、別のお話。