月下美人
凍るように静かな蒼い満月の夜に、音もなく、森を歩む1つの影があった。
肩で切り揃えた髪も、纏った衣も闇のような黒。手にした錫丈の宝玉だけが赤い。
彼の姿形は人間のものであったが、彼は生物では無かった。
「………いやぁ、やっぱり月夜は良いですねぇ」
常ににこやかに微笑む口の端が、しばしば嬉しげに、くっ、と引き上げられる。
彼は今、この森に満ちている感情を食べているのだ。
人間に限らずとも、殆どの生き物にとって夜の森は危険に満ちている。
そして、木々の風鳴りが消えた今夜は、いつもは覆い隠されている『声』が、直に大気に晒されている。
『………コワイ………』
そこここから沸き上がる、ちりばめられたような小さな負の感情。
『………イタイ………』
『………サムイ………』
『………カナシイ………』
梟に狩られる鼠の苦痛を、子供を奪われた母狐の悲しみを、鴉に追われる小鳥の恐怖を、黒衣の青年は愛らしい菓子をつまむように1つ1つ味わう。それぞれの感情はエネルギーの補給には遠く及ばないが、彼は、それを仕事の合間の一服のように楽しんでいた。
人間には聞こえない悲鳴と呻きが渦巻く中で、微笑みながら散策するその姿を冷たい青白い光だけが照らしていた…。
『………嬉シイ。』
ふと、細められた彼の目が開き、眉が顰められる。
『………嬉シイ、嬉シイ………』
森の最奥部、ぽっかりと開けた広場に、煙るように細い花弁の、白く、大きな花が咲いていた。
『………嬉シイ………………』
咲き誇る生殖の為の器官。群がる美しい蛾と共に「愉悦」を謳うその花に、彼は、この上なく不快感を感じた。
黒衣の裾をふわりと靡かせて、彼はゆっくりと花に歩み寄った。その姿はやはり、花の美しさを愛でようとする人間と寸分違わないように見えた。
『………嬉シイ、嬉シイ、嬉シイ、嬉シ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
細く長い悲鳴を上げて、その花は、彼の手の中で、ぐしゃりと潰れた。
逃げ去る蛾の白い鱗粉が、キラキラと月光に瞬く。
手の中に残った花弁と花の断末魔を心ゆくまで甘く食んでから、彼は、空を見上げて再び微笑んだ。
「やっぱり、月の夜はこうでなくてはね…」
応える者は何も無く、再び静かに森を歩き出した黒い影を、変わらず、唯、青い満月だけが見下ろしていた。