宵のまに身を投げはつる夏虫は

 

by 藤村香今 / 彩都

 
 
 ぎらぎらと殺意に満ちた目が、その人物を取り囲んだ。
 時は二十二世紀。空調設備のない屋外では、夜もむわっとした暑さが堪える夏の盛りである。
 地上には高層ビルや車や各種のテクノロジーがあふれ、夜も煌煌と明かりが灯るのが当たり前の世だが、まだまだ闇のわだかまるところは随所にあった。政府機関のある表通りから道を三つ隔てた辺り、古式ゆかしい社と森のあるこのエリアも、その一つである。肝試しと洒落込むには禍々しすぎる空気が、辺り一体に満ちみちていた。
 襲撃者の一人が、ずいっと一歩前に進み出る。
 ビジネススーツをかっちり着込んだ姿は、傍目にも大変暑苦しい。が、それを指摘する間もなく、高圧的な問いが発せられた。

「貴様、審神者の――だな?」
「それが何か?」

 襲われる側が――質問者とは対照的な和服姿で、更紗柄が描かれた紺鉄の地は涼やかな駒絽である――平然と答える。それを聞き、後ろに控える連中が一斉に抜刀した。話しかけた一人を除く全員のビジネススーツが弾け飛び、古めかしい戦装束へ早変わりする。
 めいめいが握っているのは、闇よりもなお昏い闇を凝らせたような漆黒の刃。
 刀身も拵えも黒一色で、光沢は一切ない。代わりに刀全体から、不気味な青白い焔が立ち上る。それを持つ者も並々ならぬ害意に滾っており、まさに地獄から這い出た幽鬼の如き様相だ。むき出しの腕は隆々とした筋肉に覆われており、ちろちろと鬼火がまとわりついている。
 辺りに広がる瘴気にあてられたか、街灯がひとつ唐突に消えた。夜陰が、一層深くなる。

「……歴史修正主義者か」

 審神者がぽつりと放り投げた問いに、応じる者は誰もいない。しかし最初の一人の、「本丸から一人で出て来たのが運の尽きだな」という台詞が、何よりも明確な答えとなった。
 鬱蒼と茂る木立が、盛夏ならではの生ぬるい夜風に揺らされて、ざわざわと騒ぎ立てる。
 場を通りかかる者はなく、表通りの喧騒も遠い。街を警邏するクローラーさえ来ないのは、事前に細工が為されたのか、たまたま巡回時間になっていないせいか。どちらにしても、準備のいいことである。この分では、防犯カメラの類も役に立つまい。
 やれやれと首を振った審神者が、無造作に右腕を伸ばした。
 袖をまくった腕の半分が暗がりへすっと消え、やがて肩より下がわずかに動く。何か物を掴んだらしい。
 その様に、襲撃者らの殺気が一斉に増した。審神者は構わず、おもむろに『それ』を取り出す。
 するすると虚空から現われた刀の鞘は、夜目にもはっきり分かる赤。ほとばしる光と共に清らかな鈴の音が鳴り、季節外れの桜花が舞った。

「あーもう、今日は『かふぇ』へ連れてってもらう約束だったのに。最悪ー」

 不機嫌極まりない声と共に、黒い外套を羽織った若者がふわりと姿を現す。艶やかに赤い鞘を左手に握り、市松模様の裏地を付けた外套の裾を翻して、審神者と襲撃者たちの間に降り立った。
 踵の高い靴が地面に付くと共に、その痩身が見た目に見合った質量を持つ。襲撃者たちに戦慄が走った。構えられた漆黒の刃の切っ先も、小刻みに震え始める。
 加州清光か、と誰かが上げた呻きに、『彼』は「そーだよ」とぶっきらぼうに答えた。
 黒主体の着合わせなのに夜陰に紛れず、華やいだ存在感を示すのは、暑さのあの字も感じさせぬ余裕のせいか、それとも人ならざる者故の清涼な霊気を発するためか。揺れるイヤリングや外套の釦、咲き誇る花によく似た両襟の紋も、闇にくすまず金の光沢をたたえている。
 鞘に収まった己が本体を無造作に肩に引っ掛けて、清光が鬱陶しそうに敵を一瞥した。
 硬質な瞳の赤に潜む鋭さに、襲撃者らの背がぞくりと震える。そんな彼らに侮蔑の眼差しを投げた彼は、次に肩越しに背後を振り返った。

「あのさー、付けられてるのが分かってるなら、もっと早く俺を呼んだらいいじゃん。
 何で、取り囲まれるまでほっといてんの」
「ごめんごめん。さすがに街中で、切ったはったの騒ぎはまずいから」
「ったく、この時代は不便だよなー。お前ら、何でこんなとこで襲うんだよ。
 お陰でせっかくのお出かけが台無しじゃん」

 厭になるよなーとぼやきつつ、マニキュアで綺麗に爪を彩った手が、すらりと己が本体を引き抜いた。冴え冴えとした刃のきらめきが、怨念で澱んだ空気を弾き返す。
 江戸期の名工が打ち、新撰組の天才剣士が振るった打刀。拠り代はいわゆる写しだが、付喪神たる彼を勧請した故に、刃は『本物』へ変じている。切れ味は、歴史改変をめぐる戦いで存分に披露済みだ。
「壬生狼の折れ刀のくせに」と、草むらから小さく吐き捨てる声がする。
 かの池田屋事件の折に破損した記録は、『表』でもそれなりに知られた事実だ。歴史改変を目論む者たちの間では、固有の号も綽名も持たぬくせに、使い手の名声だけで呼ばれた卑しい刀と謗る声もある。刀工が『非人清光』の二つ名を持つのも、見下される一因かも知れない。
「聞き飽きた悪口だねー」と、清光が皮肉たっぷりの笑みを浮かべた。
 まるで獲物を捕らえた猫のように攻撃的な表情に、誰もが気圧されて動けない。付喪神でも神は神。比較的新しいとはいえ、数百年の時を生きた存在には、人間の強がりなどお見通しなのである。

「これ片付けたらさ、また美味しいとこ連れてってよ。安定にも内緒でさ。
 この時間なら、甘味より焼き鳥がいいなー。あ、『らーめん』でもいいよ?」
「はいはい。〆にはシャーベットもどう? 今日は暑いし」
「うん、付けて付けてっ。俺頑張るからさっ」

 場の剣呑さを裏切るやり取りに、敵の殺意がぶわりと膨らんだ。
 しかし両者とも意に介さない。近侍の背に守られた審神者が、「奥にいる奴は政府に突き出すから半殺し程度で」と囁く。最初に声をかけた、人間らしきあの者である。清光が、振り向かずに小さく頷いた。
 二尺四寸の刀身が構えられる。古式ゆかしい型は天然理心流。切っ先の犀利な輝きが、場の空気をぴりりと引き締めた。
 ついっと、赤い瞳が眇められる。腰に下げていた金銀の珠がしゃらりと揺れた。

「んじゃ、始めよっか」

 顕現した刀装兵が石を投げ放つ。容赦ない先制攻撃に、早くも二体が倒された。
 同時に、高い踵が地面を蹴る。黒と赤で身を彩った打刀が、鮮やかに敵集団へ切り込んだ。