1. 巡りあひて
巡りあひて
見しやそれとも わかぬ間に
雲がくれにし 夜半の月かな
青を基調とした和服に身を包んだ、一人の美丈夫がいた。
背後は、夜も更けたのか暗闇に包まれた建物がある……昼間は、さぞかし賑やかになるのだろう大きな建物には、そこかしこに気配がある事を彼は感じていた。
一人、茶を嗜むには悪く無い環境だろう。
「もうそんな時間だったかな?」
来る事を、判っていた。否、理解及び認識していたと言うべきだろうか。
彼の様な「存在」にしてみれば、この「場」にある相手が「外」に出れば水に溶けた一滴の様になったとしても、自分達こそが外では「異物」と認識されるだろう事は知っている。
とは言え、立場的も状況的にも、相手を無視するには憚られると言うものは、ある。
「主……済まぬな、起こしてしまっただろうか?」
「いや、起きていたのは別件だから気にしなくて……それにしても、随分と時間がたっていたな……まさか、帰還していたとは思ってもいなかった」
主、と呼ばれた存在は。
衣冠単衣と言う、神主が身に着けるのと同じ様な型の和服を着ている。着崩している所こそあるし、冠も今は頭上に乗せてはいないが、正確には冠、単衣、袍、笏、奴袴、浅沓を着るのが正装なのだろう。手に笏もないし、若干よれている所が見て取れるので、数日眠っていない可能性もある。酷く疲れている様にも、見える。
ここは、世界と世界。
時代と時代の狭間。
西暦2205年が時の政府から、古来より日本に存在していた「人と人非ざる存在を繋げる」と言う『審神者』なる存在が政府より与えられた技術により作り出した「世界」の一つ。
時の政府の命により、歴史を修正しようと画策する時間遡行軍のたくらみを阻止し、世界をあるべき姿に維持する事を使命としている。
歴史に名を遺した「刀剣」に人の姿を与え、自らを振るい時空を超えて戦い続ける刀剣男子の主人でもある。
彼もまた、刀剣男子の一人。
「まさか、俺達が出陣する前からか?」
ふと、座っていた縁側で茶を啜ろうとした所を思いとどまったのは。
主と呼ばれた人物が、頬を指で掻きながらも、どこか照れたかのようでいて、力なく笑う表情をしていたからだ。
まるで、悪戯を見つかった子供の様な表情を。
「何をしていたのかは知らぬが……主の様な者は、根を詰めるのは良くないのではないか?」
「判ってはいるのだがね……とは言え、判断基準を『君達』と同じ目線で見られるのもどうかとは思うけど。しかし、おじいちゃんとて、決して引く事の出来ぬ戦はあるだろう?」
彼は「さて?」と言う反応程度しか返す事は無かった。
突然、老人扱いをされたにも関わらず、目くじらを立てる事もないのは、さもありなん。
「戦うべき時は戦い、引くべき時は引く……『審神者』である以上は基本だよ」
「主は、戦をされているのか? その様な予定は通達等無かったかと思っていたが……ならば、このじじいめも役に立つ事はあるだろうか?」
幾つか思考を巡らせたのは、つまるところ。
現在は中途半端に時間が余った為に縁側で一人腰を下ろしている訳だが、内心では戦場で。
もうひと暴れするのも悪く無いのではないだろうかと言う気がしてしまった様だ。
「ああ、それなら気持ちだけ。有難く貰って置く事にするよ」
ぱたぱたと、軽く降られた手に「おや?」と驚きを覚える。
疲労困憊な状態で、今は見える範囲で供の姿もない。とてもではないが、先程までついぞ戦っていた……流石に自ら戦場を駆け回る姿を想像する事は出来ないが。それでも戦闘行為の最中であれば、人手はあった方が良いのではないかと言うのが通常の思考と言うものだ。
「遠慮する事はない……が、すでに別の者達が取り掛かっていると言う事になるのか?」
言いながら、出陣していた自分達を除き。他の誰か腕の立つ者がいただろうかと思考を巡らせ……無論、誰もが腕は立つ。しかも、自分達が出陣する前から戦っていた様な言い方だ。
「その様な状況で、主は逃がされた、と?」
言って、それもまたおかしな話だと思考は回答する。
「違うって、そうじゃない。別に、誰かが破壊覚悟で逃がしたとか言うわけじゃない。
必要なのは、太刀じゃなくて算盤なんだよ」
「そろ……ばん?」
何だそれは、と言いたくなっても致し方のない事だろう。そうして、今更ながらに己は気分が高揚しているだけで、気持ちだけ持て余し体は疲労していたのだと言う事を思い知る。
「俺の認識が正しければ、そろばんとは大陸由来の算術道具だったかと思うのだが……鉄で出来ているのか? それとも、俺が知らないだけで、そろばんの刀でもあるのか?」
無いだろうとは思っていたが、その言葉に主と呼ばれた存在が体を曲げて口を押え、必死になって本能的な判断を抑えつけようと努力をする姿が見られた。
発言の二秒後である。
「そ……そろ、『算盤の刀剣男子』……、ひ、お腹痛い……お、面白い。数ある『本丸』でも、そんなの初めて聞いた……せ、政府に陳情してみ……!」
何がそこまでツボに入ったと言うのか、笑いにより震えている姿を見れば仕えるべき主人として良いのだろうかと言う気がしないでもないが……。
「何、歴史を紐解けば腕が立つのに経理だった侍が居たとか言う話もあるんだ。算盤の刀剣男子くらい、探せばいるだろうさ。
陳情書には、きちんと『名高い天下五剣の誉れたる三日月宗近の発案により』と書いて置くから安心……しかし、算盤の刀剣男子……!」
堪え切れず、何をどうしたかと言いたくなる程度に再度呼吸困難から咳込んだ姿を見て、平素は常に笑みを讃えているものの。この場は焦った方が良い気がして悩んでいる、僅かの間に。
「別にいめえじとやらについては、何か思う所があるわけではないが……」
するりと零れた言葉に、返す声を期待したわけでは無かったのだが。
「大抵は、大なり小なり人目を気にする。
例えば……和泉守兼定も堀川国広も、へし切長谷部も判りやすいかな。見せかけだけの空元気、と言う言い方もあるかも知れないけど。可能性として」
「なるほど……確かに、あの三振りには、そう言った面もあるやも知れぬ」
「以前の持ち主の、経て来た『時間』が現状に顕現する彼等に影響を与えるのは……どうしようもない。過去が、現在の彼等を造り上げて来たのは現実だ」
記憶は、形作る為には必要なものだ。
そこへ思いが絡んでしまうのは、より強い力を得る為にも。
「その点からすれば、おじいちゃんの無軌道無感動っぷり? だからと言うわけでもないけど、おじいちゃんには剣術はともかく、珠算よりも政治的な見地に偏っていると見ている。
ああ、別におじいちゃんが剣術に疎いか、頼りにならないとか思っているわけではない。
性能や技術、培った歴史の事だけではなくて……そもそも、日本における『剣術』は世界でも珍しい部類だし、主武器と言うわけでも無かった。今の型式になったのだって、どちらかと言えば人の命のやり取りが日常だった時間軸では剣術ではなく兵法が主流。安土桃山時代も後半の刀狩りの時代以降からで無ければ、日本刀が主流とはならず。以後、江戸時代に徳川家康が幕府を制定し太平の世になって、初めて掃いて捨てる程の流派が出来て、そのうちに自然淘汰して残り他は消え去った」
そもそも、そう言った「伝えられた歴史」を間近で見て来たのは三日月宗近の方である。
「確かに、技術は後から追いつくものだとは、よく言った物だな。
……そう言えば、主に問うのは筋違いかも知れぬが良いだろうか?」
「珍しい……別に構わないよ」
お互いで避けているわけではないのだが、役職でも賜らないならない限り主人たる人物と「おしゃべり」などそうそう出来るものではない。
「そうか、俺も出陣前に耳にしただけで詳しくは知らぬのだが、何人か姿が見えぬと言う話だが。今もそうなのだろうか?」
少し、三日月宗近の言葉に視線が揺れる……どこを、何を見ているのか、逡巡すると、徐に首を横に振った。
「いや、遠征に出ているとか修行にでも出ていない限り、全振り本丸の中にはいるね。
この屋敷の中にいるかと言われると、そうでもないかな……」
呑気な言葉とは裏腹に、実際にはもう少し複雑な感情を抱いてはいたのだが。
「そうか……本当に、俺も出がけに知らないかと言われただけなのだが。もしかしたら、あの後で見つかったのだろうな。
確か、計算がどうとか、刃物がどうとか……いつもの事かと……ど、どうした主?」
「ああ……うん、そうだね。健康第一だな、それは間違っていない。
いやさ、悪いとは思っているんだ。こんな無能な審神者によって顕現させられて来た君達を、戦うべき刀剣男子を、それ以外の事で使うなんてさ、目的が違うって言う話だよね、と……」
抑揚のない声で、以前見た事のある、儀式を行っている時の様なものであれば、この世非ざる何かを身に纏っているのではないかと思わせるだけの「空気」を感じる。同じ、現実から剥離した姿でありながら、白目になりかけている様にも見える。
ただ事ではないと感じたのだろう、三日月宗近は自らが「主」と呼ぶ存在の。相手の、瞼をその手で塞ぐ。
人と人非ざるものを繋げ、自分達「人非ざる物」に人の姿を与え呼び寄せた主人の視界を、与えられた手で閉じる。
「おじいちゃん?」
どれだけの時間が過ぎたのか、長い時間だったのか。それとも、一瞬だったのだろうか?
「落ちついた様だな、主」
そっと外された手は、暖かったのだろうか。
「主、その様に心が千々に乱れていては本丸で休んでいる者達だけではなく、遠征に出向いた者。演練に出かけた者達にも影響を与える事となるだろう」
「……うん、そうだな。今のは悪かった。油断した。
礼を言うよ、三日月宗近」
外が暗くて良かった、と思ったのは後になってからだ。
視界がふさがれた後で、突然強い光を目に浴びればよくないだろう。
否、そうではない……顔を見られずに済んで良かったと思ったのだろう。恐らくは。
「どうかした?」
審神者は、三日月宗近の表情が僅かに変化した事を見逃さなかった。
別に、取り立てて隠しているわけではないので構わないと言えば構わないのだが。それでも、気づくとは思っていなかったので意外と言えば意外だ。
「済まない、主。
どうにも不調法だな……主の顔を汚してしまった」
「ああ……? 戻って来たばかりだから当然な事だし、そんなものは洗えば良いだけだ。
それにしても、おじいちゃんといい、博多といい……歌仙兼定にも燭台切光忠どころか、一期一振にも力を借りて迷惑を掛け通しじゃないか。
こうなると、もう己の無能力っぷりにやり切れなくなる」
落ち着かせるつもりだったとは言え顔を汚してしまうのはどうかと言うのがある。他の者達であれば大騒ぎしたかも知れないが、幾ら動揺していたとは言っても着いていた汚れを顔に移すなどと言う事は、本来では行わなかった事だろう。
「そう言えば、一期一振が弟の一振りの姿が見えぬと言っていたかな……」
「実は博多を借りていてね……一兄には黙っていたから、それで騒ぎになったと言う訳。部屋が散らかると歌仙兼定が片づけ、休憩も無しだと燭台切光忠が差し入れてくれて。
最初、博多は通いで数時間だけ来ていたからバレていなかったけど、最近様子がおかしいと探られて致し方なく……そうしたら、あれやこれやと言う感じで知られた。
博多は計算はともかく必要以外の書類が乱雑だって一兄経由で歌仙兼定に、爆発寸前だったから良かったけど。一兄が参加してくれて、その辺りはかなり楽になった。でも、人数が増えると軽食一つにしても複数人分だから燭台切光忠に食材の在庫の件で知られて……引き入れたけど、もっと早くに言ってくれればメニューも改善したのにと、チクリとね」
日頃、色々と忙しないのが審神者であるが故に、御側仕えである近侍を除いて一日中側にいる事は難しい。この本丸とて、数十と言う人の形を模した者達が生活をしている。
だからこそ、動物を飼い、畑を作り、山野海に入り狩りや漁をしていると言う。ある意味でスローライフを行っているのが刀剣男子の半分以上の役割と言えるだろう。
歴史に名を遺す名刀とは言っても、今は拠点を維持する事も役割……と言うのが、本丸の主である審神者「達」の共通意見だ。
「で、今は鍛刀もままならぬ有様……人手を増やして、いっそ人海戦術で事に当たる事も考えたけど……頭数があればいいってものじゃない。
とは言え、心もとないのも事実で、期日が迫っている以上は二進も三進も行かない感じであるのも、また事実」
「……主、俺にはさっぱり理解出来ぬのだが、主は『何』と戦っているのだ?」
思う事があるのだろう、審神者は親に叱られた子供の様な表情で。
消え入りそうな声で、一言。
「確定申告……」
告げた。
「かくていしんこく?」
簡単に言えば、国に支払うべき税金を規定範囲外で支払っていた場合等に調整する為の租税手続きである……とは言っても、一般的には会社に所属している給与所得者だったり学生だったりしている時点では半自動的に手続きが行われているので関係が少ない。
「この本丸も刀剣男子達も、自営業及び従業員扱いで青色申告しろって政府から指示が出て。
最初は数年で終わると思っていた様だけど、蓋を開けてみれば長引く事はおじいちゃんも承知の通り。戦時特例よろしく別枠の扱いだったのに、長引くと言うのであれば腰を据えて向き合う予定らしい……とは言っても、通常仕様扱いするにしても政府からの要請なのに、公務員試験受けていないから一般徴用ですら無く外部発注扱いだなんて聞いてないっての!」
「つまり、よくは判らぬが……どうやら、俺では役に立てそうもないと言う事だな」
一しきり叫んですっきりしたのか、ぜいぜいと息を着きながらも審神者は「ああ、それは……」と言いながら三日月宗近の言葉に手を横へ振る。
「大丈夫、おじいちゃんには来るべき時に皆を共に刀を振るって貰うし。何より今、こうして愚痴に付き合って貰った。それで充分。
むしろ、それ以上は代償が怖すぎで暴力団の取り立てレベルしか想像出来ない……何を奉納しても笑顔で『それで終わりか?』と言われそうで怖い……」
ぶるぶると震えながら言われるが、目が笑っている以上は本気ではないのだろう。
言われながら、ようやく手にした湯呑の中身を一口。
と思った所ではあるが、中身が空であった事に気付く。
「ふむ、それを俺の目の前で言うのはどうかと思うがな……」
「と言う訳で、依頼報酬に関しては一定の希望を先に提示して置いていただけると助かるね。
さて、戻るとするか……調子に乗って本丸には色々と手を掛けたから終わりやしない。
ついでに、誰かいるだろうし、折角だからお茶のお代わりでも頼んでくるから。おじいちゃんはここで座って居るといい」
「いや、それには……」
「おやおや……三日月宗近、審神者の茶は飲めぬとでも申すつもりか?」
思わず、三日月宗近はぱちくりと瞬いた。
そうして、静かに笑みを浮かべた。
「では、主の茶を頂こうとするかな」
「出陣から帰ったばかりだと言うのに、何だ。
じじいを自称するのであれば、少しは体を労わって欲しいものだね」
「あい判った、肝に銘じて置こう」
そうして、軽やかな足音を立てて消えた、仕えるべき主の姿を目で追って。
毎日の様に思っている事を、唇に乗せる。
「これまで以上に、変わった御仁ではあるな」
三日月宗近が、そんな言葉を口にしていた頃。
審神者も、一人ごちる。
勿論、十分に距離を取って気配ですら気取られないと言う確信を持って。
「全てが『そう』かはさて置き、『うちの三日月宗近』も……相当アレと言う感じだな。
十年の暗闇、百年の孤独、千年の眠り……人を呪わば穴二つとは言うが刀剣男子は、さていかに?」
ちらりと、審神者が向けた視線にあるのは単なる壁。
だが、審神者に見えているのが「何」なのか。
それは、審神者以外には誰も知らない。
少なくとも、今は。
※翌日、本丸の住人が仲良く寝坊して。宴会組特性の二日酔い雑炊で朝餉を迎えたわけだが。
誰も何も話題にせず、非常に静かなものであった事を記しておこう。