世界の果て

 

by M

 
- 中編 -
 
 
 煌々と光る月明かりの下。
 リナと千恵が、離れない様に歩いてる。
 こうして歩いてると、リナは千恵が。元の世界でも、結構金持ちの部類に入る人間だったのか。もしくは、労働の必要のない人種だったのかと思う。
 一つに、道を歩き慣れていないと言うのがある。
 幾ら夜道とは言っても、月明かりで周囲はかなり明るい。昼間ほどとは言えないが、それでも視界に不便さを感じるほどではない。
 けれど、千恵はなかなか歩くのが遅い。となれば、彼女はつまづくようなもののない。平坦な道くらいしか歩いた事がないとか。夜になってから出歩く必要のない立場の。たとえば、金持ちの家のメイドとか。そう言う仕事に従事していたと言う可能性も出てくる。
 更に、千恵の来ていた服がある。
 それは微妙に目立つので着替え、今はリナの買った服を着てるわけだが。
 着替えたと言うのに、なぜか。やはり、微妙に違うのだ。
 どこが、と問われても判らないわけだが。
「大丈夫なの? ガウリイさんに、何も言わないで出てきて……」
「大丈夫よ。何かあるわけでもないしね」
 半分以上は嘘だが、ここでガウリイが出てくるとリナは思っていなかった。
 千恵と言う、かなりリナにとって興味深い存在が出てきた事で。盗賊いじめをしてる暇などないと思ったのだろう。
 ここ二日ばかり、リナに対する夜間の監視がゆるくなっていたのを。リナは見逃さなかった。
 だから、リナは盗賊いじめに出る事にしたのである。
「けど……ガウリイさん、リナさんが大事みたいだし」
「はあ? そりゃあ、まあ……一緒に旅してるし。あたしがほとんど稼いでるし。
 どこに行くとか、色々な交渉とかも。全部あたしがやってるわけだから。あたしがいないと、ガウリイ何も出来ないって言う点で言えばそうかも知れないけど……」
「え? そうなの?」
「えって……違うの?」
 なんとなく、会話が止まる。
「どういう事よ、それ?」
 考え込んでしまった為。思わず立ち止まる千恵のために、リナもつきあって立ち止まる。
「だから……リナさんには言わない方がいいのかも知れないけど。
 ガウリイさんて……」
「こんな所にいらしたんですか。お探ししましたよ、千恵さん」
 頭の中で考えをまとめて、説明をしようとした千恵の声を遮ったのは。
 千恵の知る限りの、誰の声でも無かった。
「ゼロス!? あんた、なんで千恵の事しってるのよ」
「リナさんこそ、どうして千恵さんとご一緒なんですか?」
 肩で切りそろえられた、神官服と同じ黒い男。
 手には宝石の埋まった杖を持ち、にこにことしてる笑顔……。
「ええ。実は、千恵さんは故あってこちらの世界に迷われてしまった方なので。
 僕が元の世界にお戻しさしあげる為に。探していたんですよ」
「元の世界って……なんであんたが?」
「ええ」
 にっこりと言うゼロスを相手に、リナはあからさまに驚いている。
 確かに、破滅とか破壊を司る魔族のゼロスが。幾ら異世界から来たと言っても千恵を「元の世界に返す」なんて言ってくれても。
 信用など出来るものではない。
「今月は僕の当番なんですよ。
 いやあ、宮仕えの辛い所です」
 笑いながら言うゼロスの横では、リナが「当番制なんかい!」とツッコミを入れていたりする。
「と言うわけですので、元の世界に戻して差し上げます。
 さあ、行きましょう。千恵さん」
「い……いや」
 千恵は、薄暗い中でも判るくらいはっきりと蒼白な表情をしていた。
 後ろに下がり、頭を抱えている。
 体調が悪いのか、声が震え。
 そして……。
「千恵?」
「千恵さん?」
 リナ達の声も聞こえないのか、まるで。何かから逃げるような仕草で。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 絶叫が。
 こだました。
 世界は。
 悲鳴をあげた。
 空気が震えて、肌に突き刺すような感覚が通り抜ける。
 ぞわりとした感触を覚えて、リナも自らを抱きしめる。
「何が?」
 風が舞い、雷が舞う。
 千恵を中心として。
 それに惹かれるように、様々な『姿無きもの』が集い。現れる。
「ゼロス!」
 音が消える。
 吹きすさぶ風にかき消され、立っている事もきつくなる。
 リナは、風にとられたマントの為に倒れそうになる。が、そこをガウリイが支えた。
 リナは驚かない。そう、ガウリイがいる事が判っていたかの様に。
 実際に、感じてはいたのかも知れないが。
「ええ……どうやら。千恵さんは、清々されてしまっている様ですね」
 顔に笑顔と。けれど、並々ならぬ表情を張り付かせ。
 黒衣の神官は苦悩を浮かべる。
「せいせい……って、なんだ?」
「千恵さんは、記憶をなくされているのではありませんか?」
 誰にともなく言われた言葉だったが。当然のごとくリナが答える。
「ええ、そうよ。
 千恵は、あたし達が見つけた時。すでに、一切の記憶を無くしていたわ。
 『千恵』と言う名前以外は。ううん、それが本当に名前なのかも、あたし達には判らないけれどね」
「おそらく、千恵さんが元の世界からこちら側へ来る時に。
 その魂は一度浄化されてしまったのでしょう。記憶とともに。
 だから、どんなに僕が魔族としての気配を消しても。千恵さんは気付いてしまったのだと思います。
 そう、ガウリイさんの様に。今の千恵さんは、『世界』が見えているのでしょう」
 人の中にも、時折存在する。
 勘がよい。と言う言葉の中に混じる、清々された魂。
 それは世界の真実の姿を見抜く、浄眼でもある。故に、その瞳の前にウソや虚偽はあり得ない。
 持ち主の意志に逆らったとしても、それを見抜いてしまうのだから。
 それを、心眼と呼ぶものもある。巫女と呼ぶものもある。
 彼らに唯一共通する事は。
 真実を見抜く、力の持ち主だと言う事。
 残酷なまでにも。
 そして、千恵はこの世界の者ではなくても人にすぎない。
 魔力を持っている……かどうかまでは判らないが、ある程度までの能力ならば持っているのかも知れない。
 何しろ、世界を越えてきたのだから。
「なんとか、止める方法はないの!?」
 叫び声をあげるが、それがちゃんと声になっているかは判らない。
 ガウリイに支えられ、抱きすくめられ、リナはなんとか寄りかかっているにすぎない。
「ありません。こんな力の渦の中、僕にだってどうなる事か……!!」
 ゼロスの声は、大して大声を出していると言う感じには見えない。しかし、それは精神世界を経由して声を届けているからなのだろう。
「だったら、この始末をどうつけるつもりよ。当事者!!」
 仮に方法があったとしても、リナにも判っていた。
 この力の渦の中、どうやって千恵にリナ達を。
 個々の識別を認識させるのか、それが大問題なのだ。
「そう言われましても……」
 木々が、なぎ倒された。
 山が、削られて行った。
 近くにある湖が、天に昇る竜の様にあがり。あちこちで火が起きようとしていた。
 放っておけば、このあたり一帯は大惨事となってしまうだろう。
 おまけに、手段はないのだ。
「なんとかしなさい。出来ないわけないでしょうが!!」
 乱暴な言い方ではあったが、リナの言い分は間違っていなかったらしい。
 一つ息を吐いたゼロスは。
「仕方ないですねえ……」
 消えた。
 転移したのだ。千恵の元に。
「何をするつもりなんだ?」
 ガウリイの言葉は、なんとかリナの耳にも聞こえた。
 しかし、視界は遮られ。音も聞こえない。
 リナ達には、本当に何も出来なかった。



◆ ------ ◆



 怖い、怖い、怖い、怖い、怖い!

 千恵を占めていたのは、限りない恐怖だった。
 しかし、もっと怖い存在もいる。ガウリイだ。
 千恵は言わなかった。と言うか言えなかったのだが、初めてあった時からガウリイに何かを感じていた。それがなんなのか最初は判らなかったが、次第に判った。
 畏怖にして奇怖。鬼怖と呼べるものかも知れない。
 それに比べれば、今。目の前にある黒い人形の方が怖くはない。
 前者。ゼロスを、圧倒的な力で押しつぶされそうな存在とでも形容するならば。
 後者。ガウリイは、知らぬ間に存在を消去されそうな存在とでも言うべきだろう。
 両者はそれぞれ恐ろしいものではる。何しろ、それを周囲にはおくびにも出さないのだから。
 しかし、両者には決定的な差がある。
 ガウリイは、人であると言う事。
 ゼロスが人ではないと言うのは、直感的に判った。記憶を持たなければ、様々な事に敏感になる可能性があると言う事はリナに聴いていたから。
 しかし、そのゼロスと同等の恐怖を持ち得るガウリイが。恐ろしくない筈がない。
 だから千恵は、ガウリイの事を言えなかった。
 助けてくれたし、何より。リナが悲しんだりするかも知れないからだ。だから、なんとか耐える事が出来た。
 けれど、そこへゼロスが現れた。
 もう、駄目だと千恵は感じていた。
 千恵の自我は、耐えられなくなった。
 恐怖と言うなの圧力が、ガウリイだけではなくゼロスからも押し寄せる。それが、『千恵』と言う自意識を破壊しかけた。
 出来ることは、『忘却』と言う彼方へ旅立つ事だけだった。
 けれど、そこには問題が生じていた。
 この世界の存在ではない千恵は、この世界そのものへの干渉力を持っていた。
 千恵の悲鳴に呼応する様に、世界が悲鳴を上げた。嘆き、苦しんだ。
 その事に、気付かなかったわけではない。風にさらわれそうになっているリナやガウリイの姿が見えないわけではない。
 だが。

「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 逃げ出したい衝動にかられる。何もかも忘れたくなる。
 全てを、消し去りたくなる。
「おやめなさい、千恵さん」
 突如として現れた黒髪。黒瞳の青年を見て、千恵の鼓動は一気に跳ね上がる!

 どくん!

 自分自身ですら、もう聴くことの出来ない叫び声が。
 どこか、遠くでなる太鼓の様に聞こえた。
 その声に圧倒される様に、ゼロスがたたらを踏んで後ずさる。
「千恵さ……!!」
 手を伸ばし、必死の形相で向かってくる男。
 それが認識されればされるほど、千恵の中で拒絶反応が起こる。そして、別の感情も。

 かっ!

 その時。世界は上下に分断された。
 少なくとも、千恵はそう思った。
 ゼロスが、唇だけで「しまった」と言っているのが見えた。
 瞬間的に身構えたが、まるで。
 魔法にかかった様に。
 時間が止まった。
『我を呼び、我とせんものよ』
 光は、千恵のすぐ手前。手を伸ばせば届く所で止まっていた。
 高速に回転を起こし、そのまま揺らめいている。
 球体だったものは、次第に楕円形となり。そして、回転が止まる事には。
 一本の古い錫杖となっていた。
「だ……れ?」
 木の蔓が合わさって出来たような。おとぎ話に出てくる様な、魔女の持つ様な杖。
 丈夫には紫色の宝玉がはめ込まれており。そこだけは、まるで生まれたての雫の様な輝きを持っていた。
『我を手にする資格を、持ち得る者よ』
 紫色の宝玉は、千恵の視線を捕らえて離さない。
 まるで、長い時をかけて。やっと巡り会えた愛おしい存在に出会えたかの様な。
 そんな響きを持って。
『我を手にせよ。汝が望みを叶えよ』
「あなたを……手にする?」
『我と共に咆哮せよ!』
 限りなく、魅力的な響きを持っていた。
 千恵のいる空間と、外側とでは時間の流れが違うのか。ゼロスが、さっきと同じ表情で。なんとかこちら側へ来ようとしている。
 それを見て、千恵の中にはっきりとした感情が表れた。

 怖い。
 でも、それ以上に……倒したい。

 理由など判らない。そんなもの、どうだっていいとさえ思った。
 千恵は理解した。
 この杖は、自分の為に現れたのだ。なぜかとか、理由とかは一切判らないし。
 それこそどうだっていい。
 けれど。その為の力を持っている。貸してくれる。
 望みを叶えてくれる。
「いけません。それを『紫の剣』を手に取っては!」
 突如。ゼロスの声が聞こえる。
 頭の中でこだますると言った方が、近いのかも知れない。
 はっとして、千恵はゼロスを見る。
 表情も仕草も、さっきとまったく変わらないが。何らかの方法で声を届けたのだと言うのだけは判った。
 それは、苦痛に歪まれていた。
 歓喜が起きる。
 千恵の中で、嬉々とした感情が起こる。
 この杖を手にすれば、ゼロスはもっと困るに違いない。それこそ、大変な事態になるかも知れない。
 それは、なんて心惹かれる事態なのだろう?
「元の世界に、帰れなくてもいいんですか!?」

 ぴくっ。

 千恵の手が止まる。
 感覚で判った。ゼロスの言う事は、間違っていない。
 この杖を手にすれば、間違いなく千恵は元の世界に帰れなくなる。
 幾ら記憶を失っても、幾ら。最悪の場合はこれから作れば良いのだとしても。
 求める思いは変わらない。
 迷う。
 この杖を手に取り、目前の黒衣の神官を倒す為の力を手に入れるか。
 それとも、黒衣の神官をあきらめ。あるかも判らない元の世界に帰るのか。
 判らない。どちらが良いのか、どちらが正しいのか。
 歪む顔。もっと見たい。
 元の世界。帰りたい。
『我を手にせよ。そして、我と共に咆哮せよ!』
 想いを手にする事は、思いを捨てる事なのだろうか?
「千恵さ……、帰りたく……ないの……」
 思いを取り戻す事は、想いを捨てる事なのだろうか?

 世界が歪み、悲鳴を上げる。
 行き場の無くなった思いが、世界を蹂躙しようとしている。
 千恵の心の様に、それは風を起こしている。
 判っている。
 このまま、風に身を任せてしまえば。世界だけではなく、ゼロスだけではなく。
 リナも、ガウリイも、千恵ですら。
 壊されてしまう。
「何が一番正しくて、何が一番行けない事なの?」
 杖に埋め込まれた宝玉も、黒衣の神官も。
 どちらも、同じだけ強い思いを抱いている。
 しかも、両者とも千恵の為に。あるいは、ゼロスは別の思いもあるかも知れないが。
 今だけは、きっと千恵の事だけを考えている。
「私は……どうしたいの?」
 逃げられない空間の中、千恵は完全に混乱した。
 思考がメビウスに閉じこめられてしまっていた。
 行き場のない迷路。
 その先にあるのは……一つしかない。
「千恵さん」
 千恵は、全身が震えた。
 リナではない。ガウリイではない。
 黒衣の神官でも、目前の宝玉でもない声が、千恵の全身を貫いた。
「ただいま」
「あ……?」
 はらはらと。
 千恵の顔に熱いものが流れていた。
 鼻の奥が痛くて、目頭が熱い。頭の中が、何も考えられなくなる。 
 いつだったのだろう?
 千恵は、懐かしさを感じていた。
 それまで迷っていた声とは、比較にならない声が。
「ママ……」
 幼子の声。
 まだ小さな、女の子の声。
「誰……誰なの?」
 けれど、まだ足りない。
 千恵は記憶を取り戻していない。そのためのキーワードが足りない。
「私……私は、思い出したい!」
 きっぱりとした声に、応えるかの様に。
 千恵の全身が光に包まれた。
 否、千恵から光が放たれていた。
「ママ、おうちにかえろう」
 うちからの声に、千恵は半信半疑でつぶやいた。
「赤ちゃん?」