哀しい獣の瞳

 

by wwr

 
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夢の中では、忘れていたはずの会話がくりかえされる。それは昼下がりの静かな明るい書斎で、幾度となくかわされた会話のひとつ。
「世界は丸いのですよ、ゼルガディス」
「しってるよ。お皿みたいにまるいんだよね」
「いいえ。世界はこの地球儀のように丸いのです」
「えーっ、おかしいよそんなの。こんなふうにまるかったら、立ってられないじゃないかぁ」
「それはですね。世界はとても大きくて、私たちはとても小さいから……」
「ふぅん?」
小さな子供は首をかしげて、しげしげと地球儀を見つめる。
「ねえ、じーちゃん」
「……レゾと呼びなさい」
「レゾ…は、ここみ~んな行ったことあるの?」
「いいえ、行ったことのあるのは、ほんの少しですよ」
「じゃあ、ぼくが大きくなったら、いっしょにいろんなとこに行こうね」
幼子の言葉に、盲目の法師はやさしい微笑みでこたえた。
「そうですね、いつか一緒に…」
それは遠い昔の無邪気な会話。思い出してしまうと胸が痛くなるほどの、優しい時代の記憶。

「くだらん夢だ」
めざめたゼルガディスは、不機嫌につぶやいた。ベッドの上にゆっくりと体ををおこすと、全身を包んでいたぬくもりが、嘘のようにひいていく。
顔をあげ、そのくだらん夢を見させた原因に目をやり、ゼルガディスはいっそう不機嫌な顔になる。
それは、この客室の壁にかけられた、古びた肖像画だった。
肩のあたりに豊かにうずまく金色の巻毛、若葉のような明るい緑の瞳の若い女性が、ゆったりと椅子に腰をおろし微笑んでいる。そのおしみない笑顔が向けられているのは、彼女が抱いているまだ生まれて間もない赤ん坊。
そしてその二人のかたわらに立つ人物は。
「あんた、こんなところで何やってたんだ?レゾ」
赤い法衣をその身にまとい、慈愛にみちた表情で母子を見守っているのは、まぎれもなく赤法師レゾだった。
「ちっ……」
舌打ちをして肖像画から目をそらし、身支度をととのえてゼルガディスは部屋を出た。古く広い館の中を歩き食堂に向かう。ゼルガディスはこの地方を治める領主の館にゆうべから泊まっているのだった。
キメラの研究で名高い魔道士でもある、この地の領主を訪れたゼルガディスなのだが、ここで思わぬ歓迎をうけていた。
いきなり訪ねてきた、身元の保証もなにもない者に領主が会う。などということは、まず普通はない。おまけに夜おそく訪ねたにもかかわらず、豪勢な夕食を出される。そのうえ、もう遅いから泊まってゆくようにすすめられ、客室に案内される。
これは、はっきりいってゼルガディスには慣れないことだった。迫害とまではいかなくとも、なんとなくうさんくさい目で見られることは当たり前で、それに慣れてもいたのだ。
大体キメラの研究をしている魔道士というのは、魔道士の中でも変人が多い。以前たずねた老人の魔道士には、あぶなくドラゴンと海蛇竜とのスーパーキメラにされそうになったほどだ。
『もっひょっひょっひょっ。さあ、これでお主も史上最強のキメラになれるのじゃぁっ!』
『これ以上まぜられてたまるかっ!』
たわごとをぬかす、じーさん魔道士もろとも研究所に蓮獄火炎陣をたたきこんで、難を逃れた時のことを思えば、今の待遇は文句のでるはずもない。
あの肖像画を見るまでは。
がちゃり。
食堂の扉をひらくと、主はすでにテーブルについていた。
「おはよう。昨夜はよくお休みになれましたかな?ゼルガディス殿」
年の頃は50ごろか。長身で、やや薄くなりかけた褐色の髪を丁寧になでつけている品のいい紳士が、この館の主クローヴだった。
「ああ」
ゼルガディスは簡単にこたえて席につく。朝食のテーブルについているのは、クローヴとゼルガディスの二人だけだった。二人の間を年若いメイドがひっそりと行き来し、給仕をする。
「それで、夕べのお話の続きですが、その体をもとに戻したいとか」
「そうだ」
出された食事にはあまり手をつけず、ゼルガディスは香茶のカップを口もとによせた。
「でしたら、きっとお力になれると思います。なにしろ私は―」
「?」
「あの赤法師レゾの息子なのですからね」
ぷひゅっ!
ゼルガディスの口から、勢いよく香茶がふきだした。
「な!?まさか?」
「信じられないのも無理はありませんが」
ナプキンで顔にかかった香茶を上品にぬぐいながら、クローヴは言葉を続ける。
「あなたが泊まった部屋の肖像画をご覧になりましたか?」
ゼルガディスは、無言でこくこくとうなずく。
「あれは、私の両親の肖像画なのです」
「では、あの赤ん坊が…」
「私です」
誇らしげにうなずくと、クローヴは話しはじめた。
その昔、まだクローヴが生まれる前のこと。この地方を、たちの悪い疫病が襲った。住民達はばたばたと倒れ、当時結婚したばかりだったクローヴの母と、その夫も病に伏していた。
医師達の懸命な看病のかいもなく夫は死に、クローヴの母も高熱にうかされながら、生死の境をさまよっていたという。
「そこへ、私の父が来てくださったのです」
「レゾが?」
「はい」
赤法師レゾの尽力により、疫病はおさまり人々は救われた。が、高熱にさらされたクローヴの母の瞳は、光を失っていた。
「絶望の淵にいた母を、父は救ってくださったのです。母の瞳に再び光をあたえて」
―練習台のひとつにすぎん…―
心のうちで、苦いつぶやきをもらすゼルガディス。
娘の命を救ってもらった当時の領主(ダーウェイの祖父)は、レゾに深く感謝し、どうかこの地にとどまってくれるように懇願した。レゾはそれに応え、数ヵ月間この領主の館に滞在し数々の奇蹟をおこした。そしてまた、いずことへもなく去っていったという。
「去り際に、父は母に言ったそうです。『私は苦しむ人々の間を歩まねばなりません』と」
―たいした偽善者ぶりだぜ―
「そして私が生まれたのです」
「だが、それならレゾの子供とは限らんだろう。死んだ夫の子供ということも…」
「いいえ。私は赤法師レゾの息子なのです」
自信に満ちてクローヴは首を横にふった。
「幼い頃から、母に言い聞かされて育ちました。『お父様のように、立派な人になるのよ』と」
「しかしな…」
「私もそれに応え努力しました。書を読み、魔道や医学を学び……」
「あのな…」
ナプキンをにぎりしめ、視線を宙に泳がせながら、とうとうと話しつづけるクローヴの声は、際限なくボリュームアップしていく。
「領民の声に耳を傾け、つねに苦しむ者たちの助けとなろうと…そう、現代の五賢者のひとりと呼ばれた、あの父のようにっ!」
「ま、まぁ、がんばってくれ」
半ば、自分の世界に入っているクローヴに真実を告げる気力は、もはやゼルガディスには残っていなかった。